「好き」というのを表現するのはどういう手段があるのかしら。別にキスやらセックスやらをしなくたって、「好き」というのは表せると思うんだけど。たぶん恋人同士になったら、お互いの求める愛情表現がよくわかっていないと、そしてそれを実践できないと、いけないんだろうなあと。わからん。好きっていうの自体何を持ってして好きだと判断するのかもわからん。自分の好きはものすごくいい加減な気がする。申し訳なくなるし。そんなんならない方がいいのかなあとか。今日の投稿は日記みたいだ。
2009/02/16
優しさとは
内容が二転三転しているけど...。うまく人を支えてあげるのって、とても大切だろうと。いくらずっと責任を持って一緒になれないような人でも、今だけ支えてあげるということはできると思う。絶対に断ち切らないといけない訳でもない。これ以上は支えてあげられないけど、と条件をつけてなら、自分のできる範囲で助けてあげられる。自分だって、今だけなら一緒にいたい。そう思えるのであれば。それで相手がいいなら。いいのかなあ。わからないけど。僕はこれを信じてしばらくやってみる。それに、人を支えてあげる時は、自分の方に余裕がないといけない。今は自分が壊れてしまう時ではない。これでいいと信じて、自分の優しさを出す。余裕がなくなったら、その時はその時だ。
2009/02/14
愛することへの責任
セックスは、良いものだ。前回の投稿とひどく違った内容になってしまったけど。結局、好き合っている人達が、肉体的な繋がりだけではなく、同時に精神面での繋がりによる快感も得た時に、セックスはその威力を発揮するのだと思う。愛の確認作業だなんて言ったりするけど、なかなか良い喩えかもしれない。まず、お互いに相手を悦ばせたいという気持ちがある。そして、相手を最高に悦ばせた時、それによる悦びがあって、その悦びを相手が感じ取って悦んで、またそれを感じて悦んで、という悦びの連鎖作用のようなものが始まる。今までの乏しい経験では全然わからなかったし、むしろ毛嫌いしているところすらあったけど、セックスとはひょっとして、こういう気持ちを楽しむものなのかな、と思うようになった。
ただ、その経験を踏まえても尚言える事が一つ。僕はセックスが苦手だ。すごく怖い。それは、誰かとセックスするということには、とてつもなく大きな責任が伴うような気がするからだと思う。もちろん、子供ができたら、という結果についての責任というのがまず初めにある。自分の行動なんだから、その結果として、子育てを含めた全ての行為にも責任を取らなくてはいけないのではないか、という気持ちが働く。でも実は、その子づくり行為としての結果についてだけではなくて、誰かを好くということ自体に、もう大きな責任が発生しているような気がする。つまり、付き合うだとかそういったことでも、何らかの責任を負わなくてはいけないような気になる。自分は相手を幸せにしたい。いや、少なくとも、不幸にしたくはない。自分が原因で、相手の人生が台無しになって欲しくはない。それと同時に、自分の身勝手によって、いつか相手にお別れを言うだろうこともわかっている。極論として、一生一緒になっていくなんていう自信はない。恥ずかしい話、そんな責任はとても負えない。その責任が取れないのであれば、セックスなんてするべきでもないし、そもそも好きになるべきではないのではないか、なんていう気持ちが働く。
誰かが自分のことを好いてくれたら、それは嬉しい。強く好いてくれたら、とても嬉しい。自分もその人のことを嫌いではない。いや、きっと好きなのだと思う。一緒にいられたら嬉しいことや楽しいことがたくさんある。でも、だからって好きになってしまっていいのだろうか。求められたからと言って、肉体関係を持ってしまっていいのだろうか。求められたと言っても、もちろん承諾した時点で自分の意志でもある訳だ。繰り返しになるけど...格好の良い言い方をすれば、今は良くても今後相手を幸せにする自信がない。もう一つの正直な気持ちは、相手との関係によって自分の行動に制限を受けたくない。例えばこうやって好きになった相手のために、自分のやりたいことを犠牲にできるかと問われたら、うまく首を縦に振れない。その人のために自分が志す勉学の道を諦められるだろうか。一年以上の鬱病を経てやっと見つけた道、病気回復のきっかけともなった道を、今ここで諦めることになったら、自分はどうなってしまうのか。怖い。怖い。怖くてしょうがない。震えが止まらない。
やばい。EDが治ったと思ったら、今度は鬱病再発か?あまり笑えない。誰かに笑って欲しいけど。『神様、助けて欲しい』と言う人の気持ちがわからないでもない。自分を助けられるのは自分だけだけど。自分だけなのに。
