恋の病が治ったと思ったら、またすぐに次の悩みの種を探してしまう。今、自分の将来のことが気になってしょうがない。大学院って何よ、何の為になんのよ。果たして僕は職に就けるのかね。そもそも生きて行けるのかね。そんな自信はさらさらない。その時悩んでもしょうがないことってあるんだろうけど、漠然とした不安は持ち続けるものであって、それが突然牙をむいて襲ってくる。ぎゃあー、助けてくれえー。結局は暇人なだけなのかもしれないけど。今日のはかなり現実味のあるこころの悩みだ。虚無の境地でもなんでもない。
2008/10/18
2008/10/16
はて精神とは
本当に、何度も言うように「こころ」ってのが不思議でたまらんのです。幸せを運んでくれていたものが突然悩みの種になったり、夢中だったものが突然無関心になったり。まあ、それらの逆もしかりということでね。同じものを見てるのに、その見方によってそれに対するこころの動きが全然違ってくるのよ。昨日までの悩みがまったく大したことでないように思えるというのは、良いことのようであり悪いことのようであり。まあ、こんなことは今まで誰しもが言ってきたことなんだと思う。「だいたい俺は今三歳なんけど二歳の時にはもうわかってたね それは単純だけど少しの目の位置で何にでも見えるっていうことを」と坂本氏も歌っているように、同じようなことは本当に多くの人が既に気付いているはずだ。僕だって前から、見方次第で何にでもなるなら、別におっぱいに興奮しなくともさぼてんだとか消しゴムだとかに性欲がわく可能性はあるだろ!と言ってた訳だ。ただ、それを踏まえて僕が今日気付いたこと。それは僕だけなのかもしれないけど。いくらこころは移り変わるもんだってわかっててもね、いくら見方次第でどうにでもなるってわかっていたとしてもね、その瞬間瞬間でそうやって割り切って見方を変えるのはものすごく難しいのよ。まあ後で変化するんだろうと思っても、それを自力で変化させるのは困難だよ。その時の幸福の対象を突如不幸の対象にしたり、逆に不幸の対象を幸福の対象にしたり、自分ではできないってこと。しかも、僕のよくないところは、その一瞬一瞬の自分の感覚がまるで真理かのように捉えてしまうところだろうね。この前友人に「君は随分瞬間で生きるやつだなあ」と言われたのはそういうことなんだ。結局は諸行無常なはずなんだけど、自分では何も変えられない。いや、変えられるとしても自力はかなり非力。大切なのは、時間なのか、状況なのか、何なのか。この見方を自力で変える方法を手に入れたらそれこそ最強だと思う。でも、何事にもさめたやつになりそうだけど。
2008/10/15
やっぱり
しょうがないことはしょうがないなあ、と、本気で思えてきて良かった。結局は他人がどうあろうが、それを認めていたいっていう気持ちに落ち着くんだよなあ。やせ我慢なのかもしれないけど。好きな人が自分を好きになることを望まないっていうのは、まあ自分に自信がないのももちろんあるけど、そもそも人に何かしらの行動を求めるってのに抵抗がある訳だ。それができる人ってのは、そういったことも踏まえた上で、あえて自分と相手のより大きな幸せのためにも、ぜひ自分を好いてくれ、自分はあなたを好きだから、と言ってしまう度胸だとか意志の強さがあるんだろうな。よくわからないけど。とにかく、話は戻って、僕の人生のこの時期における生き方のお手本に出会えて良かったと、今思う。もう一度遠くから眺めてみて、ああ、やっぱり憧れの人だと。今まで生きてきた中でもきっと大きな影響を受けた人達はいる訳だけど、このタイトルの付け方やら、文章の書き方やら、普段の喋り方やら、色々自分が変わったなあと正直感じる。いつの間にか真似してる。この影響を受けた僕の形をまたいつか誰かに影響として与えるってこともあるのかね。よく考えたら、作家だとかミュージシャンだとかもそういう部分は多いよね。ものすごくインプットをした上で、それを混ぜ合わせて、ちょっとした独自性を入れてみる、と。いや、混ぜ方が独自のやり方なのか。坂本慎太郎だって水木しげるやらピーター・アイヴァースやらを敬愛していて、実際その影響で成り立っている訳だ。ということで、僕の今の姿の形成に役立った人にはやはり感謝したいという結論に達する。なんかこういう考えに考えた上での結論てのがまた切実さにかけるようで駄目なのかなあ。嘘くさいのかなあ。皆にとっての恋はこうじゃないのかよ。長い。こういう書き方するとどう終わればいいかわからん。
2008/10/14
恋ってさあ
初めは相手を想っているだけで幸せでいられるはずなのに、ふとしたきっかけで何か期待をし始めちゃうと、もうそこで満足できなくなっちゃうんだよね。何も望まなくても幸せだったはずなのに、相手を喜ばせたいとか、相手に振り向いて欲しいなんていう欲を持ち始めちゃったら、それが満たされないことに気付いてがっかりする。自分がそんなことできるとすら思っていなかったのに、一旦相手を喜ばせたんじゃないかとか、ちょっと自分に気を向けてくれてるんじゃないか、なんて勘違いが働くと恥ずかしいけどすごく嬉しい。でも、それが本当じゃないってことや、これ以上同じ喜びは味わえないんだってことがすぐにわかって残念に思う。あと、そんなことちょっとでも思った自分に嫌気がさす。何だろう、この構図。つまりは望むからいけないのか。欲を持つからいけないのか。足るを知れてないから。欲望を無理矢理抑える必要はないと思うけど、それが満たされない時にもこころが不満足にならないようになりたい。満たされない。それでもやっぱり、既に満たされているところはあって幸せだなんて。
2008/10/11
安心する方法
どうしても不安になった時、安心する方法。それは、自分が変態だと思うこと。
正直、こうあるべきだとか、こうなくてはいけない、っていうような感覚に取り付かれてすごく苦しくなることがある。慣習と呼ぶのかわからないけど、誰がいつ決めたのかもしれない枠組みに、いつの間にか囚われてしまう。普段は、そんな既存の形なんてくだらなくて、それぞれの人間が自由に生きられれば良いと思っているのに、自信のない僕は特に、自分のやり方でやり通すことができない。それで、自分の気持ちとのギャップに苦しんだりする。
でも、そんな時、ああ、自分は変なやつなんだなあ、と思うと妙に安心する。自分の感覚は少しおかしいんだと自覚すると、ある程度の考え方や行動が許せるようになる。別に「これが俺だ、俺のやり方だ」なんて自信を持つ必要はない。むしろ、自分という人間は、皆ができることができない不能者、落ちこぼれなんだなあと思う。ああ、僕はアンダードッグだな、なんて。それだけでも、十分楽になる。当然、折り合いはつけないといけないけどね。
僕は変人でありたい。そこに後ろめたさを感じることのない変態でありたい。
2008/10/06
足るを知るとは
もう何度も言っていると思うけど、足るを知るということは、本当に、本当に難しい。僕は半年ぐらい前に一度、自分がやっと足ることを知れたんじゃないかと思った。自分から何も望まずに心から幸せでいられると、本気でそう思った。でも、浅はかだった。自分はどうやらそんな人間じゃなかった。
事実、あの当時、あの瞬間は、自分から望まずに満足していられたんだろうと思う。でも、それはただ単にその状況がそうさせていただけなのだということがわかった。あの当時、僕が何も望まないでいられたのは、それが手に入るだろうなんて思ってもみなかったからだ。どん底の自分が何かを得るなんてこと、想像すらできなかったからだ。自分は何もかも失っていた。もう得られるものなんて何もないと思っていた。その状況でこそ、本当に謙虚な気持ちになれた。多くは望まない。ただ生きているだけで、人と話していられるだけで、好きな人のことを想うだけで、その全てが僕を満足させてくれた。自分からは何も求めず、ただそこにあるもの全てが愛おしかったし、それだけで幸せでいられた。でもそれは、その状況に限ってのことなのかもしれない。いや、そろそろ、そうなのだと認めなくてはいけないと思う。
もう何も望まない、僕は幸せだ、これでずっと幸せだ、と思っていた時、ふと思いがけず何かを与えられた。望んですらいなかったこと、想像だにしていなかったことが、僕の目の前に降ってきた。初めは驚いて、本当に戸惑って、信じられなくて、受け取らないつもりでいた。でも、何度か与えられると、受け取っていいのかしらと思い始める。半信半疑で蓋を開けてみたら、ものすごく嬉しいものがつまっていた。まだそれが自分宛だなんて信じきれないけど、それでもやっぱり嬉しい。嬉しくてしょうがない。そんな幸せが存在してるだなんて知らなかったし、望んですらいなかったのに。いや、知らなかったから、望みもできなかったと言うべきか。
問題は、その後だ。この自分が望んでいなかった幸せ、それを覚えてしまったら、どうなるか。やっぱり、また欲しいと思ってしまう。欲望はどんどん加熱する。できればまた味わいたい。その幸せが欲しい。こころの奥底では、駄目だ、調子に乗るな、そんなもの望んでいなかったのに、と言い聞かせてるんだけど、それでも欲しい。できることならば、もし許されるのであれば、それを手に入れたい。与えて欲しい。これじゃあ、全然足るを知れていない。欲望が肥大化する時点で、満足していないんだから。
つまりは、僕はあの何も望まずに満足できていた当時、その状況によって欲望がゼロに近い状態になっていただけなのかもしれない。本当はもっともっと欲深い人間なのかもしれない。足るを知るなんて言う賢者に近づけたと思ったのは、ただの錯覚だったんだ。
実際、その可能性はあると、少し気付いてはいた。言葉に出さなかったけど、自分のその当時の状況が特別だからこんなに幸せでいられるのかもしれない、というのは意識していた。それに、人間の欲望がそうやって常に成長していくってことも、わかっていたつもりだ。だから、それ自体は、そんなに自分を責めることではないのかもしれない。誰だって、足ることを知っている訳じゃないんだ、って。
でも、それを、自分が何も望まずに幸せを感じていられるからって、まるで真理に到達したかのような気分になって、熱っぽく周りに伝えていた自分が、本当に浅はかだと思う。それは、宣言できるようなことではなかったんだ。ただ単に、状況に助けられていただけなんだ。何故それに気付きつつも、はっきりと断定できなかったのか。自分の気持ちがずっと続くような錯覚に取り付かれてしまったのか。そこが一番自分の未熟な部分だと思う。
そして、今思うこと。一度与えられる喜びを知ってしまった犬は、それを断たれた時、どうなるのか。やはりそれが自分には相応しくないものだと、自分が得られるような幸せではなかったとわかってしまった時、どうなるのか。ああ、やっぱりそうだよね、よく考えたら何をつけあがっていたんだろう、自分はもともとそんなこと期待できる立場じゃないよね、なんて思えるのか。一度喜びを知って、またそれを失った時、また何も求めずに幸せになれるんだろうか。
実際、それができるのであれば、それこそ足るを知ることなんじゃないか。自分の中の欲望に気付いた。それを認めた。望むこと自体は、それでしょうがないのだ。足るを知るのは我慢することではない。満足していなければ、足りていないのだから。でも、その自分が望むものが満たされなかった時、それでも満足できるのかどうか。失った時にも幸せでいられるのかどうか。それが、本当に足ることを知っている人なんだとそう思う。
そして、今、正直、自分にその自信はない。いや、どうなるのかわからないというべきか。本当に、わからない。
なんだか抽象的なことばかりを並べてしまったので、数日後にもう一度、具体的な事柄を並べてみようと思う。
