今日で8月も終わり。仕事も終わり。もう終わるものは何もないっていうぐらい終わり。ああ解放感。後は受験だけですね。
2008/08/30
2008/08/29
2008/08/23
2008/08/21
存在の認識
人は自分が思っているよりもはるかに強くその存在を認識されているのかもしれないとふと思った。
僕は僕の存在を認識しているし、他の多くの人達も認識している。評価の高低は別として、その存在を認めてはいる。ただ自己認識についてはブレがあって、時にまるで自分が存在していないかのような不安に襲われることがある。そんな時は他の人に自分の存在を認識してもらう(認識されていることを確認する)ことによってふっと安心する訳だ。
そこでふと思ったのは、初めにも書いた様に、人間自分自身が感じているよりもかなり強く周りから認められているのかもしれないということ。別に常日頃からという訳ではなくて、普段は忘れ去られていたとしても、過去ものすごく強く認識された瞬間はあったはずだし(生まれた時とか、抱き合った時とか、ケンカした時とか何でも)、それに今でも自分から何か発すれば割と簡単に、すぐ認識されるだろう。例えば話をするだけでも、自分は認識されているということなんだ。会話が成立するのであれば、それはお互いの認識だ。
そうすると、こうやって自分が認められた瞬間はあったし、今でも認められうるというのは、きっとものすごく重要なことなんじゃないかと思う。自分が存在するためにとても大切なことなんじゃないかと。僕も皆も、自分が思っているよりもはるかに強く、その存在を認められているんだよ。
2008/08/20
こころ
何を今さらという話かもしれないが、こころって何だろうなあと不思議に思う。嵐の海みたいにしけまっくてる時があると思えば、波一つない海のようなそんな穏やかな時もある。それで、後者の時はある種悟りの境地に立った様なというか、もう自分は何事にも動じないんじゃないか、こんな穏やかさがずっと続いて行くんじゃないだろうか、なんて本気で思ってしまう。ただ、悟りとは言っても、その自分に自信を持っていると言うよりは、もう何もかもどうでもいいと言うか、もう色々なこと考えすぎて面倒くさくなってあらゆることに冷めてしまったようなそんな状態だったりする。そして今、それに近い。なんだろうか、この穏やかさは。まあ、実際は外界からの出来事によって簡単に覆されるんだろうけどね。
2008/08/17
〜かける
自分はものすごく無力だとわかっているはずなのに、たまに突然、何かに働きかけようという意識を持つことがある。社会にコミットするとかそんな大きなことではなくても、何かしら誰かしらに影響を与えようとふと思う時がある。で、大抵の場合、その後そんな自分が恥ずかしくなる。自分から周りに影響を与えるだなんて、何を思い上がってんだ、みたいな。お前はそんなに大したことできる器じゃないだろう、もっと全てを自己消化しろ、という気持ちになる。全てを自己消化と言っても、周りとの交流自体は問題ではなくて、あくまで影響を受けるという受け身側であれば気にならない。でも、意識的に自らの影響を与えようとすることに何か抵抗を持っている気がする。自主性がなさ過ぎるのか。もっと伝えられる側を意識した自己表現をするべきなのか。例えば個人への伝達に限って言えば、相手に嬉しいと思ってもらう為に何か行動をとるとか、楽しいと思ってもらう為に何か行動をとるとか、もしくは嫌な想いをさせない、悲しませないために何か行動をとるとか、そういうこと。実際そういう気持ちの行動をとることはあるんだけど、やっぱり何か照れくさい感じがするんだよなあ。相手の反応を期待する、信じるというのも何か腑に落ちないというか。何で自分が勝手に相手の気持ちを察してるんだろう、自分にわかるはずはないし、相手もわかられたいなんて思ってないかもしれないのに、なんて。いやそれより、僕は今まで何かしら誰かしらに影響を与えてきたんだろうか。そりゃ、生きているだけで何か働きかけているのかもしれないけどね。うーん、とにかく、僕は反応を予測した意識的働きかけを良しとしないところがあるのかもしれないとふと思った。
永遠のよそ者
海外かぶれってだけだと思われるかもしれないけど、僕ぁやっぱりね、どうにも外国が好きなのよ。海外にいると、ウキウキして楽しいのはもちろんだけど、同時にホッとするような安心感があると言うか。で、まあ今になって初めて気付いた訳ではないんだけど、その気持ちはどこから来てるのか、って考えると、やっぱり「よそ者でいられる」ってのが嬉しいんだろうなあと思うんだよね。
まあ前から言う様に僕は天の邪鬼みたいなところがあって、自分が所属しているものを素直に好きになれないと言うか、いや、好き嫌いではなく、どうにも違和感を持ってしまうようなことが多々あって。なんかこんなこと言うと自分は周りと違うぜ、特別だぜ、なんて格好付けてるみたいですごく嫌なんだけど。でも、誰にだってあるでしょ、大きな何かに同化しきれないような感覚。まあ、それを押さえられないのが社会不適合者たる所以なのかもしれないけどさ。
で、話を戻すと、そんな僕が海外にいて安心感を持つのは、その生活している外国の文化だとか慣習だとかにもやっぱり馴染めずに疑問を持って溶け込めなかったとしても、自分はよそ者なんだからそれはある種当然だって思えるからなのかなあとちょっと思う。日本にいたら、自分の感覚やら考え方やらが周りと違うことに不安を覚えることが正直あるけど、海外にいたらその違いも当たり前のこととして片付けられるし、無理に何かに合わせようとする必要もないし。育って来た環境が違うんだしねえ。(いや、そんなこと言って、自分の意志がない僕は大抵の場合かなり周りに影響を受けちゃって自然にそこの文化に合わせようとしちゃうことも多いけど。)
でもまあそう考えるとつまりは、やっぱり自分は日本という国だとか、その文化だとか、生まれ育った環境に対して帰属意識というのが働いているんだなあとも思う。何かに馴染めないのは、そこに帰属意識があるから、ってことなのかね。
で、まあ一般的な意見からすれば、「そりゃあ誰だって自分が生活しているところのしがらみやら何やらから抜け出て海外生活なんてしたいよ。そっちの方が絶対楽だもんね。自由にやれるんだからさ。でもね、そりゃあある社会で行きていく以上ある種の逃げでしょ。都合の悪いところから抜け出るみたいなね」ってな感じだろうかね。そんなひどい言い方はしないか。でもまあ、ええ、そうなのかもしれないですよ。非常に浅はかですよ。今日言っていることは特に浅はかだと自分でも思いますよ。
でもねえ、何にしろやっぱり僕は、永遠のよそ者でいたいんだよなあ。
2008/08/14
構造主義者の主体性なき実存
最近やっと、構造主義と実存主義ってのが、なんとなくわかってきたような気がする。つまり後者(特にサルトルが言うような実存)は個々の人間の自由意志(とそれに伴う責任)を尊重...と言うか信じていて、前者(レヴィ=ストロースとかのやつ)は人間なんかよりもっと大きな単位の(と言ってしまえるかどうかはわからないけど)言語だとか文化そのものだとか、枠組みの方を重要視してるっていうことでしょ。違うかな。まあそうだとして、じゃあ自分はどうなのかと考えると、かなり構造主義的な考え方をしている気がする。ここ数年は特にそう。前はかなり実存主義的な考え方が好きだったけど。と言うのも、構造というものの存在は意識しながらも、それに抵抗する自分、そこから抜け出そうとする自分、また構造にぶつかった時に、今まで思っていたのとは違う(構造に規定される通りではない)自分を発見して、それこそ特異な自分という存在なんだ、なんていう意識を持っていたような気がするから。でも、だんだんとその特異だと思っていた、そして自由意志だと思っていた自分の行動まで、実はまた別の構造に規定されているだけのような気が、最近ものすごくしている。なんか大空を飛び回っているつもりだったけど、実はお釈迦様の手のひらの上だった、みたいな。例えが悪いかな。まあそれに、実際の自分は、それ程自由意志と意識をして、というか主体性を持って構造に立ち向かっていたというよりは、いつもたまたま構造からあぶれてしまっていただけのような気がしないでもない。かなり話を単純化して、ここで言う構造という枠組みを一つの社会的慣習という事項に適用してみたとすると、自分はその枠組みにたまたま馴染めず、なんとなく漠然と疑問を持って、でもあくまでなんとなく程度だからそこまで立ち向かう気にもなれなくて...という状態が長い間続いている。だから、夏目漱石の『それから』とかカミュの『異邦人』はその気持ちを代弁してくれたかのようでどうにも好きなんだよなあ。特にカミュなんて実存主義的だなんて言われることもあるけど、『異邦人』ってかなり異質なんじゃないかと思う。カミュの作品でも、『ペスト』は相当主体性のある社会への関わりを訴えていて、自分にとってはかなり爽やかでどうにも受け入れにくい。なんかそれこそサルトルとかの言うアンガージュマンみたいな。よくわからんけど。でも『異邦人』の自己意識ってのはもっとなんとなくでしょ。全然沸き上がってくるような自由意志ではないでしょ。アンガージュマンを主体的な実存主義だとしたら、こっちはもっと反主体的な実存主義なんですよ、っていうことを言っているような気がする訳。だから僕の意識も、あらゆる構造というものを意識したせいで、たまたまそこから溢れ出てしまったと言う、別に全然主体性のない実存的考え方なのかなあ、なんて。ただね、話は戻ると、そんな構造の捉え方だって、そもそも構造主義的な考えに影響されて、あらゆる構造を意識する様になって初めて生まれたものなのであって、それすらそういう思想の構造であって、それに支配されてるんじゃねえか、なんて思ったりもする。でもやっぱり最後の最後で、そういう全ての構造から抜け出た自分をある種の理想としてしまうあたり、実存を少しでも信じてはいるのかなあとも思ったり。実現出来ない実存をやっぱり信じてみたい、みたいな。結局どっちなんだろうね。
2008/08/13
悦び
昨日ふと思ったんだけど、性的興奮なんて、消しゴムだとかサボテンだとか、何からだって得られるんじゃないか。小学校の時に好きな女の子の髪の毛やらリコーダーやらで興奮してるやつはいたらしいし。例えば耳を劈くようなノイズ音だって、好きなバンドのライブで聴いてたら、最高の音楽のように感じられちゃったりするしね。いや、別に好きな何かの隣接物だから、とかそんな付加的な要素がなくとも、かなり無機質な空気のようなものにだって、場合によっちゃあ興奮を覚えられるかもしれん。だから逆に、多くの人達が興奮を覚えるようなことに対して興奮しなくたって、しょうがないと言えばしょうがない訳だ。快楽なんてそんなものなのかなあ、と。
2008/08/10
うやかなっとで考え中
最近思考がぐちゃぐちゃのどろどろで、頭の中でずっと音楽が鳴ってたり変な生き物が踊ってたりするような状態の時が本当にある。で、そういう時にバイトがあると「やべえ、こんな状態で仕事できるんかや?」なんてちょっと心配になるんだけど、始まってみると意外に何事もなかったように同僚と話をしたり接客したりしている。頭の中は遥か遠い所にいってるんだけどね。そう言えば前に、タルるートくんの「きくんだあ」(だっけ?)を自分の頭に当てられたらきっと大変だよー、なんて言ってた人がいたけど、実際そうなったら確かにやばいかもなあ、なんて思いつつ、ただきっと自分の思考を無理矢理言語化して聞かせたところで周りの人達は理解不能なんじゃないかなあともやっぱり思う。サピア=ウォーフの言語相対説なんかを全面否定するつもりはないんだけど、個別言語が思考を規定してるなんて言っても、じゃあ英語だとか日本語だとかの個別言語じゃなくてもっと個別化した個人それぞれの言葉の使い方もあって、それが影響してきたらもう手がつけられないんじゃないかしらと。と言うかそんなことより、思考なんて常にあっちこっちに飛びまくってるもので、自分ですらまとまりきらずに理解するのに苦労してんだから、それを人様が突然聞いてみた所で、「はあ?何の事やら?」ってなるに決まってるだろうと思う訳だ。そんなにぐちゃぐちゃな思考回路してるのは自分だけかもしれないけど。いやあ、むしろ「きくんだあ」欲しいかもしれん。自分の為に。そしたらうだうだ考えずにすむかも。日記も書かずに頭から聞こえてきたのをただ録音してればいいだけなんてね。
2008/08/09
2008/08/06
なんか英語ばっかり
最近周りから「暑い、暑い」って聞こえてきて、まあ確かに暑いから自分も「暑いね」なんて言うんだけど、実は暑さがそんなに不快じゃない。だからそう言いつつもその「暑い」に不快をこめていないつもり。
特にここ数年、暑いのってそんなに嫌かしらと思う。扇風機は使うけど、クーラーは付けない。なんかもったいない。別に自分はエコだぜなんて格好付けるつもりは全然なくて、暑いなら暑いでいいじゃないか、と。いや、この言い方も、なんか格好付けてる感じで嫌だけど。
で、まあ自分も暑くて不快を感じた経験はある訳で、じゃあ暑さによる不快ってのはどんなことだっけかと考えると、やっぱり「汗」かなあと思う。汗をかくことが嫌だと思うと、暑いことが不快に感じるんじゃなかろうか。確かに自分の汗の臭いをかぐと、臭え!と不快になる。あと、その汗をかいた状態で人に会うと、かなり嫌になる。汗かいてる状態を人に見られたくないからね。
でも、別に汗をどんだけかいてもいいような状態だと、そんなに暑いこと自体が不快でもないんじゃないかなあ、とふと思う。例えば家の中でだらだら汗かきながら本なんか読んでても、そんなに嫌じゃないもんね。別に誰かに会う訳でもないし。汗かいたらふけばいいし。
つまり、汗を肯定すれば、暑さは不快ではないのだ。そして更に言うと、人と交流のない引き蘢りにとって、暑さは不快ではないのだ。
で、話は変わるけど、ちょっとまたブログをお休みしようかと思う。忙しいというのもあるけど、なんか頭の中を整理せずに、しばらくごちゃごちゃのままにしておこうかな、なんて。絶対に二ヶ月以内には再開する!
