人の命の価値というのは、変動価格制だと思います。
僕は、事あるごとに「命は貴い」と言ったり、それを子供達に伝えようとする大人につい違和感を持ってしまいます。そもそもそんなことが、子供に伝わるのかどうか疑問だというのもありますし、本当に自分自身、自分の命が大切だなんて実感しているのか、とも思います。だいたい、価値観という言葉があるように、ものの価値というのは誰かしらが決めるものなのです。そして命の価値なんていうのは、結局はそれぞれ、個人個人が自分の命をどれだけ貴いと思うかにかかっています。それは個人によっても、また個人の中でその時々によっても変わるものだと思うのです。
そこで正直に言いますと、一年前の僕にとって、自分の命の価値なんていうのは、ゼロに近いものでした。決して貴いものなんかではありませんでした。でも、今は自分にとっての、自分自身の命の価値が急上昇しています。貴重なものだと実感しています。ああ、価値が下がっていたあの時に、たたき売りしたり、捨ててしまったりしなくて良かったかも、なんて思います。色々な人達や物事のおかげで、僕の命の価値が上がってきて、僕はそれをとても嬉しく思っています。
ただし、こうやって幸せを感じているからと言って、僕は決して、やはり命は貴いものだ、なんて言う気にはなれません。またしばらくして、僕の命の価値が下落することだってあるかもしれないと思うからです。命の価値が、今度こそ本当にゼロになってしまうことだってあるかもしれないと思うからです。そう考えると、人の命はずっと等しく貴いものだ、なんていうのは、全然説得力がないものだと感じます。そもそも、人間いつかは死ぬものであって、先にも述べたように、生きている間の自分の命の価値なんていうのは各々が勝手に決めれば良い、と言うより、決めるしかないのです。そして人の価値観が変わるものである限り、命の価値も変動してしまうのは、しょうがないことだと思います。それはどうにも変わることのないシステムなのだと思います。
さて、このことを踏まえた上で、今僕が思う事があります。それは、要はその命の価値を無理に固定しようとするのではなく、命の価値の変動を実感する事に意味があるのではないかということです。僕は今、自分の命の価値が上がっている事を感じています。通貨が上昇したり、下落したりしたら、その時々にやっておくべきことがあるように、僕も自分の命の価値が上がっている今こそ、やっておくべきことがたくさんあると思います。今しかやれないことがたくさんあると思います。これ以上価値が上がってしまったらできないことだってありますし、下がってしまったらできないこともあります。また、安定してしまうだけでできなくなってしまうこともあります。その時々にしかできないことがあるのです。それなら、自分の命の価値の変動を常に意識して、その時々にするべきこと、その時々にしかできないことをすれば良いと思います。
そして僕は、自分の生きている価値が上がってきている今、それを実感できている今、たくさんのことをやっておこうと思います。まあ、把握しきれないぐらいたくさんのことがある訳ですが、その中の一つとしてまずやりたいこと、そしてひょっとしたらもう今しかできないかもしれないことを、ここで簡単に述べておこうと思います。
それは、僕が愛している人達、僕を愛してくれている人達に感謝の気持ちを伝えるという事です。突然ですが、皆さん、本当にありがとうございます。これ程、周りの人達の存在を大切だと思った事はありませんでした。僕が今生きていられるのは、皆さんやその他様々な人々、物事のおかげだと思っています。本当に、伝えきれないぐらい感謝しています。ありがとうございます。
2008/06/27
命の価値は変動価格制、そして皆さんへ
2008/06/22
自分らしい生き方を
今日、突然ふと「僕は僕らしく生きて行こう」と思いました。何だかものすごく安っぽくて気持ち悪い台詞ですが。
実は、昨日書いた恋愛についての考察を含め、何かについて考え込んでいるとつい、自分とはそんなに変なやつなのか、と思ってきてしまいます。それ程世間一般から外れた、気持ち悪くておかしな人間なのかと不安になります。確かに天の邪鬼のようなところは以前からあって、世間一般にある慣習のようなものを意識的に否定しようとしている節はあると思うのですが、出来事に対する感情、言わば意識せずに自然と沸き上がってくるはずのものまで、あまりに世間とかけ離れているような気がするのです。ひょっとして感情というのも意識によって左右される範囲内のもので、考え方がひねくれているからひねくれた感情しか持てないようになっているのかもしれませんが。
それで、昨日は特に、自分の感情があまりにおかしいような気がしてきて、すごく不安になっていたのです。何だか誰にも理解されないような、そんな孤独感を持ってしまったのです。誰にも、というのは自分を含めて誰にも、ということです。おかしい、考え方がおかしい、感じ方がおかしい。ひょっとして、無理してそんな感じ方をしているのか?意識的に嘘をつこうとしているのか?だとしたらせめて自分に対しては正直に行けばいいはずなのに、見栄を張らなくて良いはずなのに、何故そんなにおかしな感覚を持とうとするんだろう?心に質問をしても、誰も答えてくれません。僕という人間は、そんなに変な人間なのかと思ったら、ついつい悲しく陰鬱な気分になってきました。
ただ、そうやって不安になった後、やっぱり人と違うなら違うでしょうがないような気がしてきました。自分が違和感を持つのならば、疑問に思うのであれば、納得できないのであれば、それを続けて行くしかないように思うのです。自分すら理解できなくとも、それならそう生きて行くしかないように思います。そうしないと納得できません。それこそ、自分らしく生きて行く事なのだと、そんな風にふと、僕は思いました。
これは、自分に対する言い聞かせです。
2008/06/21
恋愛についての十三考察
最近、恋愛というものについてものすごく考えました。考え込みました。それで、考えていてものすごく楽しいんだけど、もう難しすぎて頭がこんがらがってくるぐらいまでいってしまった僕の恋愛についての考察を、ここに雑多に記しておきます。一考察どころではないので十三考察としてみましたが、数字に特に意味はないです。強いて言えばバラックの背番号です。
さて以前「天気の良い日は告白をしよう」で語ったように、僕はつい先月ぐらい、ある女性に好きだと告白をした訳です。それで、その人に好きだと伝えたことが重要であって、同じぐらい好き返して欲しいとか、付き合って欲しいなんてのは露程も思わない、という話でした。その後色々とありまして、その女性が僕のことを恋人として捉える事は確実にない、そしてそのまた逆もしかり(僕がその女性を恋人として捉える事は確実にない)という事が再確認されました。詳しくは書きませんが、状況として、またお互いの口からもそれが証明されたのです。
今、その再確認を経た僕の気持ちを述べますと、やはり初めに主張していた通り、恋人同士になるということは望んでいなかったですし、気持ちには何ら変化はありません。そして、以前から言っているような、僕が彼女を好きでいることから溢れ出てくる幸福感は、留まるところを知らないのです。と言うよりもむしろ、以前よりも幸せが増したような気がしないでもありません。(その理由についてはちょっと省きますが。)
さて実は先日お酒を飲みながら友人とこの僕の気持ちについて語り合いまして、そこでは様々な話が登場しました。はっきり言って結論は出ていないのですが、友人がもうこんなに考えさせられて頭が痛くなった飲み会はかつてないんじゃないかと言うぐらい、二人で色々と考え込んだ訳です。そこで出た話はもうここには書ききれないですが、だいたい以下のような内容です。便宜上、その友人はK、僕の好きな女性はウン子と、呼び捨てで呼ぶことにします。
まずKが言うには、僕の話を聞く限り、僕がウン子に恋する気持ちとそれに伴う幸せというのは、Kを含めた一般論からすれば、自分にとって最良の友人、もしくは大親友を見つけたことに対する感動であり、それにずっと酔っている状態なのだということでした。僕がそれをあくまで恋愛だと呼ぶのであればそれはそれで尊重するけれど、世間一般で言う恋愛とは遠く離れたものだと言われました。(まあ、そのことは自分でも十分意識をしていた訳ですが。)
それではKを含め、一般の人が言う恋愛とは何ぞやと聞くと、定義するのは難しくて、恋と言うのは理屈では説明できない、感覚的なもの、もしくは本能的と言ってもいいぐらいのものだということらしいのです。そして例えば、Kが恋する相手についてその人の魅力を説明しろと言われても、それは不可能なことが多いと言うのです。相手に伝える状況ではもちろん努力して説明しようと言葉にするけど、実際その全てに納得するのも難しくて、やっぱり"何となく"好きだ、というのが根底にあるものだということです。
そしてK曰く、僕の場合は、ウン子の魅力を完全に理解しているし、納得もできている点で、Kにとっての恋愛とは異なっているということでした。確かにその部分については事実だと言えると思います。僕は(僕にとっての)ウン子の魅力は完全に頭で把握しています。理屈で、何故自分がウン子を好きなのか分かっています。本当かよ、と言われるかもしれませんが、それについては本当です。
と言うのも、ウン子は、僕にとって「心惹かれる人」なのです。突然何を言っているかよく分からないかもしれませんが、僕の心の中には以前から、「心惹かれる人々」と僕が勝手にそう呼んでいる人達が確かに存在するのです。なんだか人をカテゴリー化するというのも失礼な話かもしれませんが、やはりどうしても、今まで出会った人達の中で、共通項を持っていてそれによってまとめてしまう人達がいるのです。まあ、その共通項と言うのはあくまで僕の視点から見た、僕の感覚におけるその人達の共通項ということですが。
その僕にとっての「心惹かれる人々」について共通して言える事は、まず人間性が魅力的で、素晴らしくて、ものすごく惹かれてしまうということです。またその人達の生き方にどこか共感してしまい、それでいて強く憧れるのです。そして実際これが一番大切なのではないかと思うのですが、「心惹かれる人々」とは、本気でコミュニケーションが取れるのです。話していて、どこかしっくりくるのです。自分の考え方全てに賛同してくれるかどうかは別として、自分の考えを尊重し、理解してくれているような気にさせられて、つい考えていることを本気で語ってしまう人達なのです。そんな人達とは、話していてものすごく充実しているのです。まあ、全て僕の勘違いかもしれませんし、あくまで僕にとってということなので相手にとってはどうかわかりませんが。
今まで出会った「心惹かれる人々」は数えられる程しかいない訳ですが、性別だとか年齢だとか、国籍、話している言語、所属している文化などはいっさい関係なく、本当にばらばらです。国外にいる時に何人か出会うことができた人達を挙げるとすれば、28歳で学生の韓国人女性とか、同い年の仏系カナダ人の女の子とか、ホモセクシャルの30代のイタリア人男性、などなどです。彼らとは常に外国語で話していた訳ですが、そんな僕にとって伝えられることに限度のある言葉を使っていても、自分の最大限の力を振り絞って、思い切って本当に伝えたい事を言い、本気で会話ができたという感覚を持てたのです。これはむしろ、拙い外国語で話す時こそ、まわりくどいことが言えず、自分の思っている事を包み隠さず言うしかないということになり、その感覚を持ちやすいということもひょっとするとあるのかもしれませんが。
そして「心惹かれる人々」は実際数える程しかいないと言っても、実際その判定(?)を広げるともっともっとたくさんの人を思い出してしまいます。例えば、数回しか会っていないけど、あの人とあの時交わした会話がどうにもしっくりきて忘れられない、というような事です。また普段はそう思っていなくとも、「心惹かれる」瞬間を持っている人もいます。友人とのふとした会話で、妙にしっくり来たというような事です。そう言い始めると、なんだ、そんな程度の話か、という気がしないでもないですが、しかしやはり「心惹かれる人々」の核の方に位置している人達はいる訳です。一つ断っておくと、別にこれは、その核にいる人達が周辺にいる人達に比べて大事だという訳でも何でもありません。言い方は悪いですが、例えばしっくり来ない人との会話ももちろん楽しいのです。ただ、「心惹かれる人々」、そして特にその核に位置している人々が特別な存在であることは事実です。
さて、上で僕が「心惹かれる人々」の条件として挙げた、話していてどこかしっくりくるなんていうのは、それこそ理屈ではなく感覚的なもののような気もしないでもないのですが、ただこのような理由から、僕はウン子を大好きだと思っている訳です。生き方に共感できて、尊敬できて、また話していてその考え方がシンクロしているような、どこかそんな気分にさせられてしまうのです。これが僕がウン子に心の底から惹かれている理由です。
ちなみに、この会話していてしっくりくる感覚というものについては、Kも分かるし、経験したことがあるということでした。ただ、それは全て現在友人として呼んでいる人達に対してであり、それを恋愛として捉えた事はない、と言っていました。そして医学に詳しいKは、少しおもしろい話を始めました。
世の中の結婚している男女のDNAを解析すると、統計的に、遺伝子構造が"遠い"、つまりお互いにあまり似ていない構造を持つカップルの方が多いらしく、またそれは生物学的にも理にかなったことだと言うのです。生物は種の保存のために、自分と同種でありながら、自分の持っていない部分を持っているものと交配して、お互いの弱い部分を補い合い、強い部分を取り込み合おうとする傾向があるからということらしいのです。まあその交配によって産まれた子孫が、本当にその目的に沿ったように"強く"なって産まれてくるかは別として、生物はそうやって進化してきたものだという見解が、生物学における有力な説なのだそうです。まあそれが本当かどうかは定かではありませんし、K自身も納得している訳ではないということでしたが。ただつまり、これがいわゆる人間の本能として惹かれ合う、また世間一般に恋愛だとされるものではないかということなのです。それは理屈ではなく、DNAで規定されたものだとか、動物としての本能によって導かれたものなのではないかということなのです。
そう考えると、確かに僕自身にも過去、本能的に惹かれた、というべきかどうかは分かりませんが、この女の子は"何となくちょっと気になる"、だとか、"どうにもかわいい"だとかそう感じたことはあった訳です。最近はその感覚もほとんどないように思いますが、きっとこれからもあると思います。以前の恋人達も言ってみればそんな感覚だった気がします。はっきり言って何故好きだったのかなかなか説明し難いです。好きではあったはずなのですが、時々本当に恋していたのかとすらつい思ってしまいます。
そして僕の経験上、そういう人には例え好きだと伝えようとしたとしてもうまくいかないのです。どうして好きなのか、頭の中ではっきりしていないからです。と言うより、その前に自分で本当に好きなのかどうか判断ができません。考えれば考えるほど、自分が本当にその人に恋しているのか疑問に思うので、納得がいかないのです。考えて説明できないこと、頭で納得のいかない行動を取るというのは非常に難しい事だと僕は思います。
逆にウン子について言えば、僕が「心惹かれる人」である訳ですし、頭で好きだと納得できているので、好きだと伝える事がものすごく楽でした。別に簡単な方に逃げているということではなく、その方が自然のように思うのです。面と向かって言うのは照れるというようなことを除けば、心の底から好きな人にそのままその気持ちを伝える事はちっとも難しいことではありません。更にそこには、自分の正直な気持ちを伝えられたというものすごく大きな感動が伴うのです。僕はこれこそやはり、最高に好きだということなのではないかという気がするのです。自分が一番納得のいく「好き」と言う感情だと思うのです。
ちなみに、今まで出会った「心惹かれる人々」とは、全員いわゆる友人関係というものを築いてきました。物理的に連絡が取れなくなった人を除けば、今でも連絡を取り合う大切な友人達です。この人達には、交流をしていた当時、心の底から好きだと思っても、その気持ちをはっきりと言葉で伝えた事はありませんでした。実際伝える必要がなかったということも多かったです。
ただし、伝えたいと思った事は何度もありました。その内の数人に、自分が恋をしているのだと思って、それを正直に打ち明けようと思いました。でも、実際自分がその気持ちを恋愛だろうと思っていながらも、先にも書いたように、世間一般で言う恋愛と自分の気持ちとの差に気付いて、自身で恋愛だと断定し切れなかったことがありました。特に人に相談をすると、Kが言うように、必ずそれは恋ではないと言われてしまいます。その判断理由としてよく示されるのが、告白をすることによって相手との関係性を変えたいかどうか、ということです。その言葉の定義の問題は置いておくとしても、"付き合いたい"だとか、"恋人同士になりたい"だとか、そういった気持ちはあるかということが大切らしいのです。そしてもしその気持ちがないのならば、下手な事をして関係をこじらせるよりも何も言わない方が良い、と言われます。
その理屈では、確かに関係を変えたくはないと思いました。告白前と告白後でお互いの意識が変わらない事はないはずなので、何かしらの変化はあって然るべきだとは思っていますが、関係だとか枠組みだとかお互いの契約のようなものの変化は一切必要ないのです。告白するのは、ただ自分がその人と出会った幸せ、その人が存在していることへの幸せ、その人が自分にとってものすごく大切な人であるという事実を知っておいてもらいたいとふと思い、告白したくなるという感じなのです。まあ確かに、友人に対してそんなことを言うやつは気持ち悪いと言うのもわかるので、下手な事を言わない方が良いというのはわかりますが。ただ、新しい関係を築くというよりも、どちらかと言うとその現在の関係をより維持させていきたいような、そんな気持ちなのです。
ただウン子の場合で言うと、物理的な距離が遠い事もあり、友人関係というものを築くまでには至っていませんでした。その為、何かしら伝えなければ、そのまま何の関係性もないまま失われてしまうという可能性もあった訳です。それを心配して、仲良くなっておきたい、自分が大切に思っているという事を伝えておきたい、という気持ちは正直あったと思います。そういう意味では、変化を求めていたと言えるかもしれません。その後は、その何らかの関係を保つことで大満足すると思いますが。
さて、これ程大事な人への気持ち、これは恋愛とは呼べないのでしょうか。生き方に共感する、憧れる、本気で会話ができる、心の底から好きだと思う、自分にとって絶対に大切だと思う、出会えたことに感動する、存在してくれていることに感謝する...。僕はやはりそんな人達をこそ、好きでいたい、愛していたいと思うのです。また疑いなく、愛していられると思うのです。そしてそれで幸せなのです。
ああ、もうこのままどれだけ続いていくのでしょうか。考察は決してこれで終わった訳ではありません。その他結婚する際の関係とは何か、理屈で好きと本能で好きの区別はどこにあるか、そもそもその区別をするべきか、などなど、様々なことを考え、語った訳ですが、もう整理がつきません。ない頭を最大限に使って考え込んだので、ある種の楽しさと充実感を感じながらも、同時にものすごい疲労感があります。恋愛とはかくも難しいことなのですか。誰が答えを知っているのですか。次に一緒にお酒を飲みに行く人は、ぜひ僕に、あなたの恋愛観について聞かせてください。教えてください。お願いします。
ただ、何にしろ、やはりこれからも人を"好き"でいる事で幸せでいたいと思います!(おそらく最長記録更新。)
2008/06/18
心の中のDJ
時々思うのです、心の中にDJを飼いたいと。
と言うのも、自分は以前から言っているように音楽に疎いですし、ノーミュージックノーライフでもないのですが、それでもやっぱり音楽の力はすごいと感じる時はある訳です。例えば、どうにも頭の切り替えが出来なくて考え込みながら部屋の中をうろうろ歩き回ってしまうような時、ふとある音楽を聴いてみたらひゅっと簡単に気分が変わってしまうことがあります。音楽に乗せられて、おう、そう言えばこんな気分あったっけ、というような感じです。もしくは、楽しい時でも悲しい時でも何でもいいのですが、もうその時の自分の感情にばっちりとマッチした音楽が流れてきた時にも、わあ、そうそう、今そんな気分だったのよ、なんて思います。まあ、あまり経験はないんですが、やっぱりそういう時はある訳です。
そうすると、自分の心の中に、その時その時にふさわしい、うまく気分転換させてくれたり、自分だけでは捉えきれなかった感情を一緒に表現してくれるような音楽をかけてくれる(もしくはそっと教えてくれる)DJがいてくれたら、どんなにいいだろうと思う訳です。自分が特に音楽に詳しくなくて、聴く幅が狭いために余計にそう思います。
と言うよりも、何故かはわからないのですが、自分はいつも時期によって聴く音楽というのが決まってしまっていて、例えばiTunesで何か曲を探していても、リストの中から見落としてしまう曲がたくさんあるのです。何と言うか、目に入ってこなくて、その時期は結局限られた範囲の曲群の中からしか曲を選べないようになっているような感じなのです。だからそんな時、自分でない誰かに、突然曲をかけてもらえたらすごくいいなあと思います。この曲聴いてみなよ、とその時々に言ってもらえたら、それだけで人生が豊かになりそうです。シャッフル機能は所詮シャッフルな訳で、まあ他力によって偶然ふさわしい曲に出会う可能性はありますが、そうではなくて、優れた選曲能力を持ったDJが欲しいのです。
まあ、ただ、やっぱりそれは自分でやらなくてはいけないことかもしれません。皆さん、だからCDを買いあさったりするんですよね。自分の力で色々な曲を見つけていかなくてはいけないということですか。そりゃそうですね。心の中にDJなんていないですから。
誕生日と恋愛とファンについて
あまり時間は使えないので、考えた事を雑多に並べて記しておきます。
たいてい自分は定められた記念日だとかそういうものを祝う事に違和感を持ってしまう方なのですが、ただ人の誕生日については、最近特に重要だと感じています。それは以前にも書いた、人が誕生する意義という話に通じている訳なんですが、まあその人の存在が周りの誰かしらを幸せにしているのであれば、それだけでその人の誕生の意味があったということであり、それを特に感じる日が誕生日であれば良いのだと思うのです。そして、「誕生日おめでとう」と声をかけて、プレゼントをあげる訳ですが、実は周りの人が言うべきなのは、「おめでとう」ではなく「ありがとう」であるべきなのかもしれないとも思いました。そう、「あなたが誕生したおかげで私は幸せです。だから自分のためにも、この日は重要であり、そしてお祝いをしたいのです。これはささやかな気持ちです。誕生してくださって、ありがとうございます」というのが、誕生日を祝う意味なのだろうと考えているのです。それで例えばプレゼントをあげるという行為についても、自分なんかはつい格好つけているような、何とも言えない照れを感じてしまうのですが、ただそれは自分からその人に対する感謝の記しであると思えば、それは恥ずかしい事でもないかもしれません。あくまで自分が勝手にありがたいと思っている訳ですし、相手からよく思われたいからあげているものではないのですから。まあつまりまとめますと、人の、特に自分にとって重要な人の誕生日というのは、ものすごくありがたい日であるということです。
次に恋愛についてです。まあ色々ありまして、自分が豪語してきた「人は人を想うだけで幸せになれる。他に何も求めなくても満足できる」という主張が一瞬ぐらつきかけたのですが、ちょっとだけ方向を修正して、まだその生き方を続けていきたいと思います。というよりむしろ、現在自分にとってそれを実践するのにふさわしい状況になった訳で、自分がこの場でずっとその気持ちを保つ事ができるのか、見物なのです。実際可能であればそれでいい訳ですし、不可能であってもそれはそれで良い体験でしょう。ただ色々と反省材料も出てきました。何も求めないというのは嘘でした。まあ初めから、相手に迷惑をかけたくないという最低限の欲求はあった訳ですが、そういうことではなく、自分は相手に理解されたいという欲求があったことに気付いたのです。「人は人を想うだけで幸せになれる」というのはあくまで自分の弁であり、想われる側がそれを快く受け止められなければそれは成立しない訳です。例えば、やっぱり好きだと想われたら自分も好き返したいし、付き合ってと言って欲しいという考え方の人もいる訳で、そういう人にとっては自分の主張する恋愛は無価値でしょう。つまりこの自分の愛し方を相手方に理解してもらわなくてはいけない訳で、その理解を求めているという時点で、実はものすごく大きなものを求めていたのだなあと感じた訳です。と言うのも、人間関係において理解してもらうというのは最重要事項の一つだと思うからです。とにかくこの部分については、深く反省をしなくてはいけません。まあとにかく、今後自分がどうなるのかは楽しみです。さあ、どうなるのでしょうか。
さてところで、ファンというのは本当に不思議なものです。今朝からムフフ笑いが止まらないのです。というのも、ユーロでイタリアがフランスに2-0で勝ち、決勝トーナメントへ進んだのがとっても嬉しいのです。自分は大学でフランス語専攻でしたし、フランス人の友人も何人かいて、フランスという国自体に愛着がないこともないのですが、サッカーに関してはどうしてもイタリアが大好きなのです。これは小学生ぐらいからなので、もうきっと変わらないんだなあと思います。イタリアがフランスをぼこぼこにしてくれたことで、気分爽快なのです。なんだか子供っぽくて恥ずかしいなあと思いながらも、イタリアが勝つとガッツポーズなんかしちゃいます。なんだかなあ。不思議です。
2008/06/16
フッチボーウ
ここのところ毎週末に何かとイベントがあって大忙しなんですが、昨日は友人とつくったチームで市のサッカー大会に出場してきました。一回戦の相手が優勝候補だったので、正直絶対負けるだろうと思ってたのですが、前後半をなんとか無失点でしのいでPK戦に持ち込み、結果4-3で勝ってしまいました。めちゃくちゃ嬉しかったっす。久しぶりに興奮しました。試合中から試合後までアドレナリンが出ずっぱりでした。で、しかも、ちょっと前に極度に緊張する状況の例として挙げた大会でのPKキッカーを務めました。4番目のキッカーとしてスポットに向かった訳ですが、何だか今回は思ったより緊張しなかったです。めずらしく自信を持って臨めました。試合中からの興奮が続いていたからか、決めてやる!って気分でした。こんな気分を味わえただけでも、とっても良い体験でした。再来週までまた走り込みを続けて頑張ります。
2008/06/13
ノーミュージックノーライフではないですが
音楽をやっている人が好きです。なんだか皆さん、とても正直そうなのです。僕のためではなくても、彼らのために音楽は存在していて欲しいです。そういう人に会えるおかげで、毎週金曜日は少しテンションがあがります。
2008/06/10
フランス語をやろう!
一昨日、あるフランス語の面接試験を受けてきました。フランス語を話すのなんて約一年ぶりだったので、もう随分忘れてしまっているだろうな、と思っていたのですが、自分が思っていたより「話せて」びっくりしました。語学には完璧がないので、自分が「できる」だなんて決して思うことはできないのですが、以前の自分と比べて「できる」とか、自分が思っていたより「できる」とか、あくまで自分を基準にしたものであれば「できる」と言える訳です。それで今回はまさにそれでした。5年間かけてつくった自分のフランス語体系ってのは、なかなか崩れることはないんだなあ、と思うと何だかそれが嬉しくて、やっぱり語学って楽しいかもしれない、なんて改めて感じました。...ということで、これからまたフランス語を勉強しようと思います。なんだか柄にもなく爽やかですが、頑張ります!
2008/06/02
夏時間賛成
日本でもサマータイムを導入しようなんていう話があって、まあ当然と言いますか否定的な意見が多いようなんですが、僕は正直に言うと、けっこういいのになあと思うんです。確かに面倒くさいでしょうし、どれ程の省エネ・エコ効果があるのか疑問ではありますが、なんだかあの時間を得したような感覚、どうも好きなんですよ。そんなもん結局後で損するじゃねえか、と言われるかもしれませんが、そちらは何故かあまり気にならないようです。そして何より、絶対の概念のようであった時間というものがいとも簡単に崩されてしまうというのがなんだか不思議で良いんです。所詮、社会で流れている時間というのは、"時間"という抽象的概念を一つの方法で解釈して区切っただけなのね、と改めて気付かされるようなそんな感覚です。まあ、そんな事を考えなくとも、皆にとって時間について、そしてその有効活用について考えるための良いきっかけになるんじゃないかという気がします。それに、皆が一斉に時計の針を動かすだなんて、ちょっとした一体感みたいなのがあって良いんじゃないかとも思います。あとそれから、否定的な意見の中に社会に混乱が起こるなんていうものがありますが、実際そんなに混乱するようなことじゃないですよ。仮に一日、二日混乱したとしても別にいいですし。まあ、実際導入されたら自分も文句たれてるかもしれませんが。そして実際導入されないんでしょうが。それならそれで別にいいんですけどね。
