僕は、とても不器用な人間なんだと思います。こどもと接する時、または世界の貧困問題やら地球の環境問題やらと対面した時、どう振る舞えばいいのか、どうにもわからないのです。自分勝手な愛や偽善で行動をして、それが果たして相手の為になるのかどうか判断しかねるのです。結局何もできずに愛想笑いをするのです。でも、そもそも僕の行動なんて何の為にもならないですし、それによって何も変えられないはずです。そう思えばもっと素直に行動できるかもしれません。自分の行動の自己満足さと、自分自身の無力さを意識さえすれば、不器用でもなくなるかもしれません。
2008/05/27
2008/05/25
サルの反省
最悪の日曜日を迎えた。昨日の夜は楽しかったはず。でも、少し調子に乗り過ぎた。無茶なお酒の飲み方をして、無茶なはしゃぎ方をして、まったく何をそんなに求めていたのかと思う。そして今日、そのために自分の目標を一つ諦めた。二日酔いだからなんてものじゃない。もともと心が拒んでいたのも事実なんだ。その諦めによって、ある種の解放感すら感じるけど、それじゃいけないだろうと心の中の誰かが言う。この失敗をいつまでも引きずるべきではない。でも、反省は必要だ。自分をいじめるのはもう辞めたつもりだけど、自分を叱ることは時にしなくてはいけないらしい。こんな気分ひさしぶりだけど、最近のたるんでいる自分に喝を入れたい。反省したい。新たな決意をしたい。もう一度目標を立て直したい。
2008/05/23
緊張感と快感
極度の緊張感にさらされた時、下腹部のあたりがギュッと締め付けらるような感じがして、その後それが大きな快感に変わる、という経験をされたことはないでしょうか?アドレナリンがたくさん分泌されているのか、もしくはひょっとして前立腺のあたりが刺激されているのかなと思うのですが、まるで性的快感と同種のもののような感じなのです。そしてその快感の後、ものすごい集中力が溢れ出てきます。
例えば、時間制限のある試験で問題があまりに難しい時、一瞬焦りで頭が真っ白になり、何も考えられなくなります。ただ次の瞬間、この快感に襲われて急に集中力が高まり、それが試験終了まで続くという事がごく稀にですがあります。他の例では、サッカーの大会でPKを蹴る時なんかも、それに近い感覚だと思います。緊張でどちらかと言うと蹴りたくないはずなのに、いざその瞬間になると足を前に運んでいってしまうのです。観衆の前で即興で楽器演奏をしたり、スピーチをしたりするのも、そういった感覚なのかな、と思います。
その原理ははっきりとしていないにしろ、医学的にも認められている感覚だそうです。この緊張感と快感、そしてその後の集中力が自由に引き出せたらいいのになあとたまに思います。
ところでサッカーで思い出しましたが、チャンピオンズ・リーグの決勝はPKでの決着でした。本当に、人生というものは残酷です。どうしてあそこで足を滑らせるのか。なぜあそこがぬかるんでいたのか。考えれば考えただけ悲しくなります。ただ、そこから幸運を手にして勝利した人達を見ていると、嬉しさがこみ上げてきます。天国から地獄とはまさにこのことで、逆の立場に立てば、地獄から天国ということなのでしょう。言うのは簡単ですが、人生とはこういうものなのだと改めて感じました。そして勝者も敗者も、どちらも美しいと思いました。朝からまた感動で泣きました。
2008/05/21
枠組みに囚われる事の幸と不幸
他人が作り上げた概念に囚われる、ということについてよく考えます。世の中では"幸せの形"というものすら既に決められていて、それに沿う事が幸せであると感じるように信じ込まされているように感じる事があるのです。確かに、そういった"幸せになる方法"を示されているがために、自分にとって何が幸せであるかを明確に位置づける事ができ、またそれに従いさえすれば幸福感を得る(そう信じ込む)事ができるという利点もあると思います。ただ逆に、そのある一つの幸せの形を信じるがあまり、それ以外の幸せを見落とす危険性もあると思うのです。
例えば最近周りの人達に伝えているように、「付き合う」なんていう概念なくなってしまえばいいのに!とものすごく思う訳です。と言うのも、偉そうな事を言うようですが、その「付き合う」という概念があるために恋愛によって幸せになる形を限定してしまっているような気がしてならないのです。
おそらく以前誰かが、人を好きになれば"付き合って"、"恋人同士になり"、お互いに同じぐらい好きだと思い合うというのが最高に幸せな形だと示し、多くの人がそれに賛同したのでしょう。確かにこれによって、ある種の幸せは制度化されました。「付き合う」という契約を交わす事によって幸せであると感じる事ができるため、恋をする多くの人が容易に幸せになる方法を確立したと言えるでしょう。
しかし、あまりにその概念に囚われ過ぎると、恋愛で幸せになるのと「付き合う」という概念のみがイコールでつながれてしまい、今度はまるでその契約がなければ幸せでないように感じてしまうことがあると思います。実際は、人を好きになるということだけで心が満足することもあり、何も"付き合わ"なくとも、相手に自分と同等ぐらい好かれなくとも、十分幸せになれるはずなのですが、それに気付かなくなってしまいます。これも以前使ったくだらない例えではありますが、登頂する事ばかりに夢中で、登山中にある美しい花々を見落としてしまっているようなものです。とにかく、恋するということが既に幸せであるということを忘れてしまうのはとても残念なことだと思います。
以上が、概念に囚われるという事の不幸だとしましょう。僕は常にこれを恐れ、時代や場所によって決められたあらゆる枠組みから抜け出してみたいと思っています。いえ、実際は全てのものから中立性を保つというのは不可能だと思いますが、せめて自分自身が何かによって規定されてしまっているということを常に意識しておきたいなと思っている訳です。そのために幸せを失う事もあれば、新たな幸せを見つけることもあるかもしれないと考えているのです。
ただ、自分が嫌っていたある種の枠組みが、幸せをもたらすこともあるという事実を認めなければならないとふと思いました。と言うのも、急にくだらない話になりますが(いえ、初めから十分くだらないですが)、今から約5時間後にチャンピオンズ・リーグの決勝が始まる訳でして、正直に言うと初めは、どちらのチームもそれ程好きな訳じゃないし、今年はそれほどテンションあがらないだろうなあ、なんて思っていたのですが、いざ当日になりますと、もう「チャンピオンズ・リーグ決勝」という言葉、その概念だけで、楽しみでないはずがないという気になってきてしまうのです。伝統、権威といったものが作り上げてきた価値というものはなかなか馬鹿にできません。その用意された枠組みによって、僕の心は興奮気味なのです。きっと良い試合になるに違いない、楽しめるに違いない、という気がしてならないのです。待ちきれません。今日は一年の総決算です。枠組みに囚われて、今日の僕はまた幸せです!
2008/05/18
明日お天気だったよ
前回に引き続きお天気関連タイトルですが、ひさしぶりに言葉のことで気になったことを書こうと思います。
今日、バイト先のパートさんがこう言いました。「あ、そう言えば、明日お天気だったよ。」
この台詞だけを取り上げて見ると、何で明日のことなのに「だった」なんて過去の話のように言うのかしら、とちょっと不思議な感じがします。まあ日本語文法では、現在形と過去形という概念はなくて、動詞のタ形とル形は完了・未完了の違いしか表さないそうなので、当然タ形を未来の話に使ってもいい訳です。ただ、明日お天気であるという事実自体は別に完了している訳でもないですし、とにかく響きがちょっとおもしろいなあと思いました。
それで、まあ容易に想像できるかもしれませんが、上の発話が何を言わんとしていたかというと、「明日あたり雨が降るかもしれないね、なんて昨日皆で話していたけれど、実際今日の天気予報では晴れると言っていたよ」ということなのです。つまり、天気についての話をしたのは完了したことであって、「雨が降ると言っていたけど、実は晴れだった」と解釈するか、もしくはその人が天気予報を見たのも完了したことであって、「予報によると明日晴れだった」と解釈すれば、「明日お天気だったよ」という発話は、聞き手が何ら支障なく理解できるものな訳です。まあ実際そんなことを考えずとも、僕も他の皆さんも前日に天気の話をしていたという共通の了解があったので、全く問題なくその発話を受け取ることができました。
こうやって一見非文法的であったり意味をなさないような発話であっても、文脈やある前提を経れば、文法的でありまた理解可能なものに早変わりする訳です。いわゆるウナギ文「僕はウナギだ」も、からくりを知らずにこの発話だけを取り上げて聞いたら、つい`おかしい`と思ってしまう人もいると思います。まあただそれだけのことなんですが、自分でそういう場面に出くわした時(そういう類の発話を自分自身で聞いて発見した時)はちょっと嬉しくなっちゃうということを言いたかったのです。
それでふと思ったんですが、つい人との会話が面倒くさいなあって思っちゃう時とか、他の人の会話が聞こえてきて(例えば電車の中とかで)うるせえなあって思っちゃう時なんかも、おもしろい発話探しだなんて思えば全然苦じゃないかもしれません。ということで、これからしばらくはアマチュア・プチ言語学者のつもりで暮らしてみます。
さあところで、昨日はアマチュア・フットボーラー、今夜はロマニスタです!ローマ優勝してください!
2008/05/17
天気の良い日は告白をしよう
えー、この「虚無の境地」というのは、誰にも聞いてもらえないであろう自分のタワゴトを虚しさに駆られながら書き綴っていくべき場所であって、気分を高揚させながらプライベートな事柄を披露するためのものではないのです。したがって、今からやろうとしていることは自分にとって半ば反則なんです。ただ、やはり書いておかねばならん、という気がどうしてもするんです!ですから、なるべく簡潔に書きます!
昨日、好きな人に「あなたのことが好きです」と伝えました。と言うよりも、突如言い放った(=思うことを遠慮なしに言ってやった)という感じでした。愛の告白、と言うとなんだか大袈裟なので、恋の告白とでも言っておきますが、とにかくその告白というやつを不意打ちのようにしてしまいました。更に途中からはその子が持っている魅力について、褒めちぎるというか褒め倒すというか、なんだかもう褒め殺してしまったような感じでした。決して意図的だった訳ではないのですが。
さて、恋している本人に向かってここまではっきりと「恋してます!」だなんて言ったのは人生初な訳ですが、ものすごく良い体験でした!最高の気分でした!自分が本当に恋してるとわかったことにまず感動、そしてそれを正直に伝えてしまったことに感動。普段は何が自分の正直な気持ちなのかさっぱりわからない、だなんてウジウジしていますが、今回ばかりは素直な気持ちを表現できたと思うんです。そしてこれが恋の告白というやつなんですね。やばいです、告白。病み付きになりそうです。と言うのは冗談ですが。とにかく、正直であることは素晴らしい!
それで正直ついでにこの告白に至った経緯を明かすと、実は一昨日の午後にふと外を歩いてみたら、それはもう雲一つない晴天で、こんな春の日の天気の良い昼下がりには無性にあの子に好きだって言いたい!と思い立ち、まあ結局一日遅れになりながらも、電話でその気持ちを伝えた訳なんです。そんなのただの気まぐれじゃねえか、とかものすごい勝手だな、ただの自己満足だな、と言われればもう返す言葉がないんですが。
いや、ただあえて言葉を返すとすれば、伝える過程はともかく、気持ち自体は決して気まぐれではなくて、確固としたものがあると思っている訳です。まあ、恋なんて一過性だと人は言うかもしれませんが、とにかく今現在惹かれているこころはきっと事実です。ものすごく憧れていて、ものすごく興味津々な訳です。かつてこんなに人を好きになったことはないんじゃないかと思う訳です。これを恋と言わずして何と言わんや。
そしてもう一つ。この行為が自己満足だということについてはもうまさにそうだと思います。自分は大満足な訳ですが、突然そんなことを言われた相手の気持ちを考えるとそこにはでっかいクエスチョン・マークが現れます。いや、彼女にとってはそもそも僕の行為自体にジャイガンティックなクエスチョン・マークでしょう。
ただ、ここで少し話は変わりますが、姪っ子が生まれた時に書いたように、人間の誕生というのは元来親の身勝手であり、自己満足から発生したものな訳です。両親が勝手に生んでおいて、それを喜んで、その子を愛するってのはもう勝手極まりない訳です。でもそうやって愛することについて自分勝手であることは悪いことでもないのかなあなんて最近思っていて、「君を勝手に生んじまって悪かった。でも、勝手で悪いけど君が生まれてきたおかげでこっちはもう幸せいっぱいなんだよね。もう最高。君、最高。」と親が感じながら子と接することができればいいなあ、なんて考えたりしています。子供だって、自分の存在が周りの人達を幸せにしているんだっていうことを意識すれば、悪い気はしないんじゃないかなあ、とか、例えそれが誕生の瞬間のみだったとしても、誰かしらを幸せにしたのであれば、自分の生に大きな意味があると思えるんじゃないかなあ、とかなんとか考えている訳です。だからとにかく、親は自己満足だろうが何だろうが遠慮せずに、子供を愛するということに思いっきり満足して、思いっきり幸せになってしまえばいいんじゃないか、と先月あたりふと思った訳です。
さてそれで、その話と今回の話を無理矢理つなげるのであれば、人を好きになるっていう行為はまさしく自分勝手であり、僕みたいな人間はややもすればその勝手さが申し訳ないなあなんてつい思ってしまうことがある訳ですが、それだってふと、そんなもん自分勝手なりに思いっきり好きになったりゃいいがや、という気もするのです。まあ、自分だけ勝手に悪いなあという気はどうしても抜けないんですが、とにかくその人を想う気持ちで満足しておきたいなあと思うのです。と言うのも、少なくとも相手にとって、自分が原因で思い悩まれるよりは自分のおかげで幸せいっぱいになってくれた方がいいんじゃないかなあ、とかごちゃごちゃ考えている訳なのです。そしてそれを踏まえて、何にしろ幸せ表明をしておこうという気になったのです。こうして本人にその幸せ表明をして、それで相手が気分を害することがなければ最高であって、そうなったら実際もう僕の恋は成就したようなものです。
まあこのままごちゃごちゃ書いてもまとまりそうにないですし、こんな話は気持ち悪いのでやめます。今日だけ許してください。自分自身にとってもこの幸せ表明を残しておきたいなと思ってしまったのです。そう、勝手な話ですが、またこんなことブログにまで書いてしまって当事者には非常に申し訳ないんですが、僕はすっきりしちゃって、今幸せいっぱいです!最高!
2008/05/14
掘れそうです、いや惚れそうです
最近全然勉強に身が入らなくて気分が沈みまくりだったんですが、ふとした出会いで感動しちゃいました。台湾人の男性なんですが、まず本当に台湾出身?(本気で疑ってます)っていうぐらい絶妙な日本語を操って、次々にディープな日本アニメ・マンガネタを繰り出してくるんです。あの人誰なんでしょう?台湾生まれでアメリカ在住らしいんですが、どうやって日本の言葉やら文化やらを身につけたんでしょう?謎だらけです。そしてそこにしびれる、憧れるぅー、です。本当に。今好きな女の子も相当魅力的で憧れてますが、彼もまた最高です。天才です。惚れちゃいます。いや、掘れちゃいます。
2008/05/11
地元にいるっつうこと
友達が神戸から帰ってきてたこともあって、皆でフットサルした後に飲みに行ってきました。いやはや楽しかったです。いつからお酒飲むことを覚えたんでしょう。カナダでかしらん。とにかく、今回の帰省(鬱病になって実家に帰ってきたこと)は、いつの間にかできてしまっていた地元の人々(友人しかり、家族しかり)とのミゾを埋めるためにも相当意味のあるものだったと思います。やっぱりバイネタは理解してもらえなかったですが。違うんです。下ネタがしたいんじゃないんです。くだらない下ネタはむしろ嫌いなんです。そうじゃなくて、人とは何かを考えるにあたって、セックスとは何かという話をしているんです。いたってマジメな下ネタなんです。まあ、とにかく楽しかったです。明日起きられないかもしれません。おやすみなさい。
2008/05/06
プチパニック
もう時間もないし頭の中もこんがらがっているので、最近日記に書いたことなんかを適当に記しておきます!
ちょっと前にものすごく色々な感情を味わいました。例えば前にも書いた姪っ子の誕生のこと、そして姪っ子を眺めていてものすごく愛らしく思ったこと。これらの嬉しい気持ちから、ちょっとしたニュースでどんよりした気分になったこと。特に姪の誕生のすぐ後だったからかもしれませんが、近親相姦、幼児虐待の事実に対して相当な衝撃を覚えました。自分にも倫理観というものが存在しているんだということも感じました。ただその後しばらくしたらそんなことは忘れてしまって、全く別のことを考えていられる自分にもびっくりしました。
さて、こうやって全然頭の中が整理できない時、いくら寝る前に日記を書いたりだとか、こうやってたまにブログにつらつらと考えを綴っていたって、それらは決して自分の全てではないんだなあと思いました。まあ当然のことではあるんですが、思考というのはもっとこうまとまりきらないし、かなり交錯した考えというのが頭の中には存在していて、そしてその中には現れてはすぐには消えてしまうようなものもあって、どうにも捉えきれないものだと思うのです。この流れは止められません。それを無理に捕まえようとすることに意義があるようなないような、それすらも判断しきれません。
ところで、少し前にチャンピオンズリーグの試合を観ました。なんだか最近はサッカーの試合を丸々一試合集中して観ていられないことが多いんです。特にシーズン終盤になってきて、サッカーを観ることへの疲れだとか、結果がわかってきた寂しさだとか、何とも言えない感情も相まって、サッカーに対する情熱がしぼんでしまっているような感じがします。ただ、この日の試合は相当良かったです。とても盛りだくさんで、サッカーでこんなに感動できたのはひさしぶりでした。最高級の試合を観た後はやっぱり良いです。選手たちは皆キラキラ輝いて見えました。そこには一つ一つの人生があります。世界各国から様々な人生を生きてきた人達が同じ場所にそろって同じ目標に向かうだなんて!
それで話は若干それるんですが、その試合の影響もあって、なんだかバラックがものすげえかっこいい!と思ってきました。こうやって毎シーズン"はまる"選手が必ずいるんですが、そうなるともうその選手の出身地だとか、経歴だとか、移民だったら何系なのかだとか、ひたすら調べちゃう訳なんです。それでバラックは東ドイツ出身だとか、確実な情報ではないけど、ゲルマン民族ではなくてソルブ人という少数民族の血を引いてるだとか、そういった背景の情報を知ると、もう試合を観る楽しみが何倍にも増えます。さてそれから、このバラックの流行とともに、急にドイツに興味が湧いてきました。今までドイツについては相当無関心だったんですが。あー、ドイツ語勉強してみたい!ドイツ行きたい!
それからまた話は変わりますが、自分が未熟であることを意識していて、それを当然のことだと受け止めながらも、決してそこに安住することのない人がかっこいいなとふと思いました。そしてつい高野悦子さんの『二十歳の原点』を読みました。なんて人間らしいんでしょう。その少し恥ずかしいぐらいの未熟さも、戸惑いも、魅力的なんです。時に無気力そうではありながら、やっぱりアツく生きているんだなあというのがにじみでてきています。実際、どの人でも日記を読んだらこんなふうなのかもしれません。
さて、こうやってまとまらない文章をだらだらと書くのは嫌いなことなんですが、あえてやってみました。それは、ちょっと知り合いの真似をしてみたということもあります。なんだかむちゃくちゃ書いてても魅力的な文章になってしまう人はいて、そんな文章を書いてみたいなあと思ったのです。同じようなことしてみたいなあと思ったのです。なかなかうまくいかないですが。
さあ、たくさん書いたところで勉強しよう!努力しよう!目標は立ってる!既に立ってるんだ!
