2008/03/31

すっきり!!

前回、近所の台湾料理屋の店員が実は中国人だと知ってショックを受けたっていう話を書いた訳なんだけど、、、今日またそこに行ってみたらなんと!!店の看板やらのれんやらが全て「台湾料理」から「中国料理」に変わっていた!

うーん、、、何故?前の料理人が台湾の人だったけど、今回中国の人に変わったということかしら?それとも僕という常連客に店員が中国人だということがばれてしまったため、台湾の看板を掲げることに抵抗を感じ始めたのかしら?いや、それはないか。

まあとにかく、これからは台湾ではなく中国(大陸系の)料理屋としてやっていくみたい。最初は、やっぱり台湾料理屋って宣伝した方が客が入るからかなあ、とかなんとか考えてたけど、決してそんなつもりではなかったみたい。疑ってごめん!そして正直なところがさらに気に入った!

いやー、ものすごくすっきりした。

2008/03/27

思い込み

ちょっとショッキングなことがあった。

普段あまり外食しないんだけど、家の近くの台湾料理屋だけはお気に入りでよく行く。うまいし安いし速いし。厨房では中国語が飛び交っていて、その雰囲気も相まって「本場の味」という感じがする。

ただ、最近そこの料理の味が落ちた。料理人が変わったらしく、明らかに前よりおいしくない。とても残念。それが一つ目のショッキングなこと。

もう一つのショッキングなこと。この前そのお店に行った時に、変な時間帯だったこともあって他に客がいなかった。そこでふとしたきっかけでウェイトレスのお姉ちゃんと少し話をした。(方言・訛りフェチの僕としては彼女の中国語訛りの日本語がちょっとお気に入り。)さてそれで、これまたふとした流れで出身地の話になり、「台北の出身ですか?」と聞いた。すると彼女が「いえ、私はハルビンの出身です」と言う。

...ハルビン。ああ、東北地方の、、、うん?ハルビンって中国じゃないか!あなたは台湾の出身じゃあないのか?と思ったのは僕。

店にはでかでかと台湾料理の看板があり、てっきり店員は皆台湾人だと思っていた。いや、それは僕のただの思い込みだってことはわかってる。わかってはいるんだが、なんかものすごいショッキングだった。別に騙されたともなんとも思わないけど、意表を突かれたという感じだ。

ひょっとして厨房の人達も中国人なのかしら。だとしたらなんで台湾料理って看板を出してるのかわからないけど。うーん、本当に予想外だったなあ。

2008/03/26

トラトラトラ!

恋は一途。
遂にやった。iMac Summer 2001にTigerをインストールしてやった。Leopardが発売されてるこのご時世になんて時代遅れな話だと思われるかもしれないが、それでも苦労した末のことなのでうれしくてたまらない。実はもう一つの新型iMacにはLeopardを既に入れたんだが、ずっと10.3で成長が止まっていた古いiMacもこの機会にアップグレードしてやろうと考え、Tigerをインストールすることに決めた。だがしかし、iMac Summer 2001モデルは「虎」のシステム条件自体は満たしているのに、DVDドライブが搭載されていないために、フルインストールDVDを使ってもシステムインストールができない。そしてTigerはDVD版しか発売されていない。つまりAppleの嫌がらせだ。でも、DVDドライブ搭載の他のマックをターゲットモードで接続し、外付けDVDドライバとして利用すれば、古い型のマックにTigerのインストールができるらしいので、一ヶ月ぐらい前に一度やってみた。ネットなどで調べてやってみたが、なかなかうまくいかず、その時は諦めた。しかし今回もう一度と思い、色々ごちゃごちゃ試してみたら、遂にインストールが始まった。そして待つこと約2時間。さわやかな音楽とともに「ようこそ」の文字が現れた!いやー、いいねえ、いいねえ。動作速度は若干遅くなるかもしれないけど、やっぱりこっちの方が使えるアプリケーションも増えてよいもんね。やっと虎を飼いならしたぜ。やっほい。

2008/03/22

頼りない生牡蠣のような感受性

茨木のり子っていう人の詩がものすごく良い。もう体がビリビリ震えて、ボロボロ涙が出てきちゃう。きっと以前だったら全然好きになれなそうな詩なんだけど、今はとっても良いと思う。特に「頼りない生牡蠣のような感受性」っていう言葉が大好き。この人は「感じる」っていうことをとにかく大切にしてきた人なんだなあ、と思う。そして自分もやっと「感じられる」ようになったこの時を大切にしたいなあ、と思う。いや、彼女曰く「自分の感受性は自分で守るもの」なんだよな。これからもずっと「感じて」いたい!「感じて」いこう!

2008/03/21

足底筋膜炎

どうやらソクテイキンマクエンとかいうのにかかってしまったらしい。どんな症状かと言うと、足の裏の筋肉が常に張っている感じがして、ズキズキ痛む。ひどい時は歩きづらいくらい激痛が走る。

ランニング障害の一つで、マラソンランナーでもなる人がけっこういるらしい。特に固いコンクリートの上を走っている人は、その衝撃で足の裏の筋肉が炎症を起こすそうだ。うーん、まさに自分に当てはまる。半年間ぐらいずっと走り続けてきたからなあ。ここに来てその負担が足へとやってきたか。

直すためにはまず幹部を定期的に冷やして炎症を止め、安静にすること。そして予防策としては、足のストレッチをよくすること。...だそうだ。体は大切にせねば。

走りたいぃ、走りたいよぉ。

2008/03/19

ニュータイプ覚醒幸福論

半ニートのくせしてここのところやけに忙しい日々が続いていた。それで数日前にやっと色々なことが一段落ついたので、今日はひさしぶりにブログを更新してみる。

一ヶ月ぐらい前、あらゆることに感動して涙が止まらないなんていう時があったが、あれ以来(いや、その少し前からかもしれない)不思議な体験が続いている。一つ一つの出来事はただの偶然と言えなくもないようなことなんだが、それが何度も起きるので、もはやコウインシデンスなどとは思えないようになってきた。

ある日のある時、しばらく会っていなかった友人のことをふと思い出して、「元気にしているかな。ちょっと連絡してみようかな」なんて考えていた。するとそう考えた数分後、まさにその友人から突然「元気?最近どう?」と電話がかかってきた!その偶然がなんだかうれしくて「僕も今、君のことを考えてたんだ!」なんてつい恋人同士かのような会話をしてしまった。

そしてその数週間後のこと。電車に乗っていてある駅を通った時、「あ、ここはあの知り合いの仕事場があるところだな。元気にやっているだろうか」とふと思った。そして、「まだ帰宅時間には早いし、まさかいないよな」なんて考えながら周りを見ると、まさにその人が電車に乗ってくるではないか!びっくりしてすぐに話しかけ、同じ時間のしかも同じ車両に乗り合わせたという偶然にちょっと盛り上がった。

そしてさらにまた別のある日。バイトが休みだったのでちょっくらダウンタウンまで行こう、と最寄りの駅に向かった。すると駅で切符を買う時に、財布を忘れたことに気がついた。しょうがないから家に引き返して財布を取り、再び駅へ。ただ、駅に着いた時、今度は携帯電話を忘れたことに気付く。普段だったら携帯なんて置いていってしまうところだが、なんだかその日は妙に誰かから連絡がくるような気がして再び家に戻った。「あまり忘れ物はしない方なのに、今日はなんだかおかしいなあ」なんて思いながら、部屋に置きっぱなしだった携帯を手に取ったまさにその瞬間、電話が鳴った!それはバイト先からで、「あれ、今日仕事入ってるはずなんだけど、来てないよね?どうしたの?」と言われた。そう、休みを一日勘違いしていたのだ。そしてそのまますぐにバイトに行き、なんとか数十分の遅刻で済ますことができた。まずバイトをすっぽかさなくて良かったと安心したわけだが、それとともに自分が財布と携帯を忘れ、それが結果的に幸運となったことにびっくりした。

...とまあ、こんなことばかりが続くんだが、これがただの偶然というだけではなくて、どの場合も自分自身がその出来事を予想しているというのが不思議なのだ。いや、予想とまではいかないかもしれないが、何か未来に起こることを「感じて」いるような気がするのだ。少し前からやたらと感受性が豊かになったような気がしていたんだが、感じることの幅まで広がっている。まさかニュータイプにでも覚醒してしまったんだろうか。またはシックススセンスに、いやいや、聖闘士達の言うセブンセンシズに目覚めてしまったのだろうか?

自らの運命を知り、未来の出来事を予測し、それを覚悟することこそ幸福だとプッチ神父は説いたが、僕はこの能力によってまさに幸福へと近づきつつあるのかもしれない!

2008/03/06

neとpasで挟むってこと

僕は大学生の時、フランス語を専攻していた。大学受験の時点でなぜ仏文学専攻を選んだのかと訊かれたら色々と理由が挙げられるんだけど、実際他に国文科やら中国語学科やらにも惹かれていたので、いくつかある選択肢の中でたまたまそれを選んだと言えなくもない。ただ、その半ば偶然選んだフランス語に、在学中はけっこう夢中になっていた。フランス語を勉強するのがおもしろくておもしろくて、留学も含めた5年間ほぼずっとお付き合いしてしまった。

普段飽きっぽい僕がここまでフランス語に一生懸命になったのには、一つのきっかけがある。それは、一年生の初級文法の授業でフランス語の否定文の作り方を習った時のこと。教授が「否定文を作るには、動詞をneとpasで挟みましょう」と言った。当時の僕にとってはそのフランス語の基本とも言える文法規則がとても不思議に思えた。否定文をつくるために二つの単語を使うの?しかもその二つで動詞を挟むってどういうこと?なんでそんなことするの?と思った。

そしてもう一つ不思議だったのは、「ちなみに基本形はこのneとpasで挟むものですが、口語ではneが省略されることが多いです」という説明だった。二つの単語を使うべきなのに、そのうち一つは任意だとはどういうこと?pasだけで否定の意味なの?じゃあ、neの持つ意味は何?と疑問がわいてきた。

フランス語を始めた当時、僕にはpasよりもむしろneの方が否定の語というイメージが強かった。おそらく音が近い英語のnotやnoからの類推だったのだろうと思う。それでついつい*"Je ne vais en France."なんてpasを抜いた文を書いてしまうこともあった。ただ、実際英語のnotだけではなくて、他のヨーロッパの言語でフランス語と同じくラテン語を起源に持つイタリア語やスペイン語、ポルトガル語を調べてみても、たいてい"n"で始まる単語一語を使って否定文をつくることになっている。それぞれ"non"、"no"、"nao"という具合だ。じゃあ、何故フランス語だけこの否定語らしいneではなくて、pasという単語を否定語として使っているんだろう?考え始めたらどんどん不思議に思えてきた。

そこで色々フランス語の成り立ちを勉強してみたら、やっぱり他のロマンス諸語と同じように、フランス語でも本来ne(元はnon)が否定語としての役割を担っていたらしい。ただ、neという一音節の語が会話の中で聞き取りにくいこともあってか、古フランス語の時代に否定を強調するため違う語を合わせて使うようになった。例えば歩数を意味するpasを使って"Je ne marche pas."「一歩も歩かない」とか、しずくを意味するgoutteで"Je ne bois goutte."「一滴も飲まない」、点を表すpointで"Il n'y a point."「一点もない」などなど。それでいつの間にか歩数のpasが他の動詞にも適用されるようになって一般化して、現代のフランス語のようにne...pasという表現ができあがったらしい。だからpasという語は、名詞として使われた場合は今でも「歩」の意味を保っているけど、副詞として使われた時には、否定語としての役割を担うことになっている。ちなみに、goutteを含めた他の否定表現は全く使われなくなってしまったけど、ne...pointという表現は今でも文語で使われることがある。

それで、僕はこのフランス語の否定語の成り立ちを知った時に、へえぇー、なんて興味深いんだろう、と思った。だってもともとはneの方が否定で、pasは強調のために補足的に使っていただけなのに、だんだん後者に否定の意味が移って、今ではneはあってもなくてもいい補足の語になってしまっただなんて、まるっきり語の地位の逆転だなあ、と。そしてそれが時間を経て皆の了解を得ながら変化していったというのも、人間の言語の持つ不思議さとおもしろさだなあ、と思った。

まあ、実際言語の意味の変化なんてのは珍しいことではなくて、日本語の「ありがとう」、「黄昏」、「貴様」なんていう簡単な例でも挙げだしたらきりがないと思うんだけど、今回のneとpasの件で更に僕が感動したのは、自分自身でその語の意味が変化していく過程を実感したということ。というのも、先に言ったように、僕はフランス語を勉強し始めた時には、ついついneという語の方だけに強い否定のイメージを持っていた。でも、しばらく勉強していくうちに、だんだんとne...pasという表現に慣れてくる。いつも二つで一セットという感じだ。そして仕舞いには、会話では平気でneを省略してpasだけを使うようになっていた。pasがあればもう十分に否定文だという感覚を持つようになっていた。つまり僕の脳の中でも、短期間でしっかりと言語の意味の推移が起こっていたということなのだ。(まあ、前述のようなフランス語の否定後の成立過程と同じではないけど。)そしてその過程が自分の中で起こったというのがある種の感動だったのである。

僕が感じたのは、外国語を勉強し始めた時、初めはただの意味のない音の連続にしか聞こえないのに、一つ一つの意味を知って、それを何度も聞いたり、自分で言ったりを繰り返しているうちに、人はだんだんと自分の中に言語体系をつくりあげていくものなんだなあ、ということ。もちろんそれはその言語の母語話者が持つ体系とは異なったものだし、簡単にブレが生じてしまうもので、学習者の中間言語(インターランゲージ)だなんて呼ばれてるけど、それでもしっかりと頭の中で物事を体系化させようとする人間の脳ってのはものすごいなあと感心してしまった。そしてそれが顕著に表れる言語ってのはなんて興味深いものなんだ、と思った。

...とまあ、実はこの「neとpasで挟むってこと」を知ったというのが、僕の外国語学習に対する興味を引き出しただけではなく、語学を超えて言語学という分野への興味にもつながっていった重大な事件だったのだ。そう思うと、あの時の感動がなければ、大学生活でここまで勉強しなかったんだろうなあ。フランス語の否定表現が「neとpasで挟む」だったことに感謝するべきかもしれない。

さてそれで、最近またあの時の感動を思い出して、色々勉強をしたいな、なんて思ってきた。まずはほとんど忘れてしまったフランス語を含めて、外国語を勉強したい。だんだんとpasが否定語の認識になっていったように、外国語は繰り返し勉強していれば、それだけ新しい言語規則を自分の中につくりあげていけるんだと思う。そして自分の中に複数の複雑な言語体系がつくりあげられていっているという過程を感じるのが、僕にとってはなんだか快感なのだ。まあ、それを実行するのは簡単ではないんだけど、ちょっとずつちょっとずつやっていきたいな、と思っている。

それから、その自分の中の中間言語を母語話者の言語体系に近づけていくという過程を、言語学的に分析してみたいな、と思っている。人間の第二言語習得がどういうものなのかを研究してみたいのだ。実際僕がそれを勉強して、その知識を将来言語教育に生かすつもりなのかと言われれば、別にそこまではっきりとしたビジョンがあるわけでもない。教師という職業に対してものすごく熱い思いがあるわけではないし、やってみたらそんなにおもしろいものでもないかもしれない。でも、今は学びたいというこの意欲を大事にしてやりたい。勉強したいっていうこの気持ちを保っていこうと思う。そして自分自身の好奇心をもとに少しだけ進んでいってみようと思う。

さあ、勉強を始めよう。「neとpasで挟むってこと」を知った時の感動を胸に。