何これ?涙が出てくる。詩を読んで、音楽を聴いて、涙が出る。感動する。自分がこんな状況になっていることにまた感動する。嬉しいし、不思議だし、わけがわからない。「こころ」を取り戻したからか?わたしもやっと「感受性」を手に入れたのか?ただ躁状態になってるだけか?とにかく、ずっとずっと心が動く。感動の連続。何、これ?何の涙?全然悲しくない。生きてるのにカンドウする。これまで生きてこれたことにカンドウする。自分を取り戻したことにカンドウする。嬉しさに、悲しさに、全ての感情にカンドウする。こんなふうに声を出して、感動して、涙するなんて!こんなに何かを感じるなんて!生きたい!生きていたい!生きていきたい!
2008/02/21
おかえりなさい!
僕の「こころ」が、やっと戻ってきた!今、色々なことを感じる!色々なことをやりたいっていう意欲がある!素晴らしい!
本を読んで、音楽を聴いて、勉強をして、映画を観て、サッカーを観て、歌を歌って、楽器を弾いて、スポーツをして、または新しいことをやって夢中になる瞬間がある!いや、どれだけ本当に夢中になっているのかわからないけど、少なくともそれをやりたいっていう気持ちに満足がいく!
病気になって以来、ずっと迷子になってたこのこころ。いや、その前から5年間ぐらい、一つのことに集中するために押さえつけて、いつの間にかどこかにいってしまってたこのこころ。ある種ナンパで移り気で欲張りなやつだけど、僕はこいつを嫌いじゃないと思う。もう一度何かをやれるような、そんな気分にさせてくれる。もっと他のけるくしょーずあこてを探す意欲をわかせてくれる。
ずっとこんな気持ちが続く訳ないっていうことはわかってる。またなくしちゃうかもしれない。でも、やっと戻ってきたこころを今は大事にしてやりたい。今はこの気持ちを充分に味わっていたい。
そしてこころに「おかえり」って言ってやりたい!
2008/02/17
一人称の幅を広げる
ブログを開設した時に、人はコミュニケーションを取る相手によって、ある程度自分自身を使い分けていて、それを保つのが時に大変になる、というようなことを書いたが、今日は主に言葉による自分の使い分けの話。
少し前に、小・中学校の時からの友達(男の子)と高校の時の友達(女の子)と僕の三人で一緒に遊ぶ機会があった。まあ、半分僕が彼らを引き合わせたみたいなものだったんだけど。それで、ちょっと散歩した後にふらりと飲み屋に入って飲んだ。その席では色々楽しく会話してたと思う。
そしてもう時間も遅くなった頃、まず女の子を家まで送り、その後その男友達と二人で帰途についたが、突然彼が僕に言った。「お前さ、あの子と話してる時、話し方違うな。ていうか『僕』って言うなよ、気持ちワリぃ」と。
まあ、彼も酔っていて、別に悪い意味で言ったわけではなかったようなんだが、僕にとってはけっこうショックだった。傷ついた、ということではなく(自分が気持ち悪いことは重々承知しているので)、僕はそんなに人によって言葉遣いを変えているものなのか、と気付かされたのだ。
と言ってもまるっきり無意識だったということもなく、やはり自分自身会話中に何度か違和感を覚えていた。その時は、その違和感をむしろ楽しんでいるところもあったが、特に二人に同時に話しかける時に、どういう話し方をしていいものか、どうにも迷う瞬間があった。
言語学では位相だとかレジスターなんて用語を使うらしいけど、言葉には年齢、性別、職業、場面、地域等々の相違から起こる変種というものがある。そして、この複数の言語変種のコードスイッチングを同じ場で何度も行うというのは、けっこう負担だ。というより、スイッチング自体は行えるが、それを人に見せると「照れる」。なんだか「恥ずかしい」。
さてそれで、今更な話だが日本語ってのは一人称を表す語が比較的多いとされている。そしてその一人称の語の使い分けが、かなり位相の使い分けと通じているところがある気がする。「僕」、「俺」、「私」、「自分」、まだまだたくさんある。女の子言葉では「わたし」と「あたし」でも随分違う機能を果たすそうだ。まあ、それが全てだってわけではないが、一人称はコードスイッチングを表現するための便利な語だとも言えるし、それを知るバロメータのようなものにもなりうるんじゃなかろうか。
僕にとって一番顕著な一人称の使い分けは、「僕」と「俺」だと思う。普段は「僕」の方が多くて、実際「俺」を使うことは少ない。でもどうやら、小・中学生の時には頻繁に使っていたみたいだ。地元に帰ってきて、その時の友達と話すとたまに「俺」が出る。家族と話していてもごくたまに出る。ただ、東京の知り合いにはほぼ確実に「僕」な気がする。
ところで、うちの父親は僕の前で自分のことを話す時、「父さんはな」と言う。また、彼は以前教師をしていたことがあるんだが、生徒と話している時は自分のことを「先生」と呼んでいた。どれほどキャラクターまで違っていたかは知らないが、職場と家庭とで一人称の語を使い分けていたということになる。でも、彼が幼い時には自分をそんなふうに呼ぶなんて思ってもいなかっただろう。そうすると、子供が出来た時、就職した時、等々、自分が新たなシチュエーションに身を置くことになったら、その分使う一人称の幅も増えるかもしれないということだ。(...僕にも姪っ子ができたら自分のことを話す時に「おじちゃんはね」なんて言ってしまうんだろうか。想像できないが。)
それから、日本語の一人称の話からは離れてしまうが、外国語で話すというのもある種の変種かもしれない。英語で話す時、フランス語で話す時にもある程度自分自身の使い分けがある。カナダにいた時は常に人によって英仏語のコードスイッチングをしていたが、両方を使って会話をしていた英仏バイリンガルの子に、「君って英語を話す時とフランス語を話す時で、けっこうキャラクターが違うね」と言われた。つまり僕は、"I"と"je"を使い分けていたのだ。まあ言ってみればその"I"と"je"の中にも細かく色々なキャラがあるはずなんだが。
後天的に覚えた外国語ってのは、それを習得した環境にかなり影響されているので、英語を話す時は、会話を通して僕が英語を学んだ人達(英系カナダ人やらカナダ移民の人達)に合わせたキャラになり、フランス語の時はフランス語を教えてくれた人達(主にフランス人)に合わせたキャラになる、というのも言えるかもしれない。まあとにかく、そうやってある種の異文化を持つ人達と交流し、言葉を新たに覚えることによって、今までなかったまた違う人称を設定できるような気がしないでもない。
さて、何を言いたいのか全然まとまらなくなってきてしまったが、ちょっと最近、無理矢理その一人称の使い分けのバラエティーを増やしていってみようかな、と思っている。僕はあまりキャラの使い分けが得意ではないので、統一するというよりむしろ色々なキャラを共存させてみる。まあ、先にも言ったようにたかが一人称によってそんなにキャラクターまで規定できるものじゃないかもしれないが、ひょっとしたら自分という人間の幅がちょっとだけ広がるかもしれない。今後新しく出会う人には、「わたし」だとか「わし」だとか「わい」だとか「自分」だとか「モワ」だとか、その他よくわかんないけど、今までやったことのない方法でアドレスしてみようかなと企てている。まあ、実際そんなこと気持ち悪くてできないだろうけど。差し当たって、今後しばらくこのブログでは「わたし」を使ってみるのでどうぞよろしく。
2008/02/14
ナルシシスティックな合わせ鏡の恐怖
髪を切った。もうかれこれ5年以上、床屋やら美容院やらには行かず、自分で散髪しているんだが、セルフカットの良いところはまず何よりお金がかからない。それに、こうこうこういう髪型にしてくれ、なんて人に説明する手間もかからないし、美容師と散髪中に交わす会話がいまいち噛み合わなくて自己嫌悪に陥るなんて心配もない。こんなこと言ったら美容師の友達に悪いが、僕はおしゃれでポップなビューティシャン達との会話があまり得意ではない。以前カルチョオタク仲間の一人が美容院で「ヨルゲンセンみたいな髪型にしてください」と言ったら「マルティンですか?それともマッズですか?」と聞かれたなんてネタで話していたが、本当にそんな素敵な美容師がいるとしたらぜひ会ってみたい。
さて、自分で髪を切る場合、コツとしては指で長さを測りながら切っていくんだが、やはり後ろは鏡を使わないと難しい。前と後ろとで合わせ鏡をして確認をしながら切る。そして実は、この合わせ鏡をする度に、僕はあることを思い出す。ブログ開設以来病気をネタにしてばかりで何なんだが、それは僕がまさに"鬱病ど真ん中"だった時に襲われた不思議な感覚。それまで経験したことのないようなある種恐ろしい感覚だった。
その恐ろしい体験について語る前に、まず僕のある性癖について触れたい。以前も人に話したことがあるが、僕には人生の大きな転機というものがある。(と、自分で思っている。) それは中学二年の時。 ふと、ある知人に勧められて、『日記』を書き始めた。 そして何気なく始めたこの『日記』が、 後の僕の人生に大きな変化をもたらすことになる。
最初の頃は本当に何てことのない内容の日記だった。 今朝、起きて何をした。学校で何があった。友達と何をした。 ただ単に日々の生活を綴っているような日記。 でも、そんな中身のない出来事を並べているだけでも、 毎日書いていると、それぞれの出来事が不思議と重要味を帯びてくる。 そして、それぞれの出来事に対して、自分がどう思ったのか、 それについて何を感じたのか、ということを書くようになってくる。
ただ、ここである問題が生じ始めた。 出来事に対する感情、意見をまとめようとしても、 なかなかうまく書けない時がある。 筆が進まない、というよりは、筆は進んでいるんだが、何かしっくりこない。 それまで、こうやって書けばうまい文だ、と教えられてきた 読書感想文のような文章を書いても、 それがまるっきり嘘っぱちのように思えてくる。 決して自分の本当の思いを表していないような気がする。
じゃあ、僕の気持ちって何だろう。 僕はこれを見て、あれを聞いて、これをして、あれをされて、 いったい何を思ってるんだろう。 本当の僕は何を言いたいんだろう。 そうやって考えれば考えるほど、自分の感情がわからない。 自分には全く感受性が欠落しているようにも思えてくる。
これが、日記による自己の発見、もしくは喪失の始まりだ。 別に当時こんなこと考えてもいなかったが、 自分を見つめて苦しみ始めたのはこの時期からだった。 そして、自分のどんな行動をも分析しようとしてみる。 自ら本当の自分だと言えるような行動を探ってみる。 ハイテンションになって楽しもうとしてみたり、 やけにローテンションをきどってみたり。 でも、何をしていても自分の本当の行動ではない気がする。 後で日記を書く自分との乖離がある。 だから、何をしていても自分の行動に自信がない。 その行動が自分の本当の行動であると信じられない。 たまに思い切ってある行動をとってみたとしても、 後でまた自己嫌悪に陥ることがある。 何であんな行動をしたのか、自分でも理解できない、と思う。
そして僕は、何をしていても自信がない、信念がない、確信が持てない、 はっきりとしない自分がだんだんと嫌いになってくる。 行動を取るのにも迷う。行動をとったら後悔する。 何をしていてもそれは僕の納得のいく答えではない気がしてしまう。いつからかそんなふうに感じるようになってしまった。
さて話は戻って、僕が鬱病だった時、この僕の性癖のようなものがさらにひどくなった。かつてない程のアイデンティティ・クライシスに陥り、はっきりしない自分を責めてしまったというのは「自分を好きになるってこと」の中で述べたが、それと同時に、自らの信念を持つために、自分とは何者なのか?今何をすべきで、何をしたいのか?ということをひたすら自問した。確固たる自分を捜そうと努めた。
するとある時突然、「バシィィッッ」といくつにも重なった自分が見えたような気がした。なんだかマリファナ吸ってるやつのセリフみたいだが、本当に合わせ鏡をしたかのような、そんな幻想を見た。それは、いくつも存在している新たな自分自身を次々に発見したが、実はその全てが虚像であり、どこまでもどこまでも奥に進んで行ったとしても本当の自分なんてものは永久に発見できない、というある種の悟りのような絶望のような、そんなおかしな感覚だった。そしてその後の僕はもっともっと壊れていった。
実は合わせ鏡というのは昔から縁起が悪いと言われていて、怪談の題材にもよくなっている。鏡の中の世界は別世界だとか、霊道ができると信じられているだとか。江戸川乱歩にも、『鏡地獄』という鏡の球体の中に閉じこもって発狂した人を描いた小説がある。ちなみにネットで少し調べるだけでも、合わせ鏡を題材にした怖い話がかなりある。まあ、今合わせ鏡をして、僕のその時の恐怖が蘇るってことはないんだが、あの感覚は今でも忘れられない。ひょっとして僕もあとちょっとでまるっきり別世界の帰って来れないようなところにまで行っていたんだろうか。そう思うと正直、怖い。こわやこわや。いや、本気で恐怖を感じる。
ただ、この体験でもう一つ感じたことは、僕はずっと信念がなくてへろへろな自分が大嫌いだとかそんなことを言い続けてきたわけだけど、自分に関心があるという意味では、相当自分のことが大好きなんだなあ、ということ。思うに、僕にとって常に一番の関心事は自分である。何か出来事に対して反応する自分を見るのが好きなのである。多世界との交流をした自分を見るのが好きなのである。例えば恋をした時なんかも、あんなに恋しないなんて思ってた自分が人を好きになるなんて、と新たな自分を知って感動するのである。まあ、自己分析すればするほどわからなくなって、またその自分が嫌いになるんだが、それでもやっぱり、自分をずっと観察していても全く飽きないぐらい、いつまでも自分自身に興味津々なのだ。
とにかく、こうやって合わせ鏡のように自分を見つめ過ぎる行為は危険だ。しかし、ああ、僕はなんて青臭くて恥ずかしいナルシシストなんだ!というのが今日の戯言の結論。
2008/02/11
ブログ開設
今日から本格的にブログを更新していこうと思う。(と言ってもかなり不定期になりそうだが。)
2008/02/10
自分を好きになるってこと
さて、今回ブログを開設したわけだが、いざ何か書こうと思っても特に何も思いつかない。そこで、少し前に書いて別の場所で公開したものをもう一度アップして、このブログの第一回目の投稿とする。本文中でも何度も言うように、やはりこれが、今の自分が出せる精一杯のメッセージだと思うから。本来続きだったものの一部分のみを載せるので、初めて読む人にはわかりづらいところがあるかもしれないが、あえて修正せずそのままにして投稿する。...いや、こんな断りを入れつつ、ここで新たな読者を獲得するだろうとは正直思ってはいない。しかしこうして"誰か"に対して発信をしたという事実こそが大切なのだ。これが誰かの心にひっかかればと願いつつ、いつまでもこのメッセージを自分自身の心に留めておくためにここに載せる。気が向いた人がいれば、ぜひ読んでもらいたい。
「自分を好きになるってこと・完結編」
前回の日記は、つい悪い癖が出て脱線してしまった。今回はその本題。そして、できれば読んでもらいたい。普段は僕の書くものを読むなんて苦痛だろうと思ってこんなこと言わないけど、今日だけは読んでほしい。面倒だったら最後の数行だけでいいから読んでほしい。うまく伝えられるかどうかわからないし、お前こんなことブログに書くなよ、というぐらい重い内容になるかもしれない。でも、大まじめに、これを僕からの精一杯のメッセージにするつもりでいる。
前回書いたように、僕は自分に自信がない。信念がないへろへろの人間で、そんな自分が大嫌いだ。ひょっとしたら自分に何か高い理想を求めてるからそんなふうに思うのかもしれないが、自分という人間に納得がいかない。そうやって今まで生きてきた。
これも既に述べたが、考え方によってはそういう生き方をしているというのも信念の一つだと言えるかもしれない。現に、自分に自信を持ちたくないと思うことがよくある。自分の考え、生き方に自信を持ってしまった時点で、僕という人間が確立されてしまって、それで終わってしまう気がする。ずっと謙虚でいたい、というのとは少し違うかもしれないが、常に自分に対して成長、変化の幅を残しておいてやりたいような気がする。
ただ、こうして自分自身を嫌うっていうのは、時にとても危険なことがある。と言うのも、自分自身を責めすぎるあまり、そこから立ち直れないぐらいにまで落ち込んでしまう時があるからだ。事実、僕が深刻な鬱病だった時期には毎日自分を責めていた。鏡で自分の顔を見る度に「こんなクズ、早く死んじゃえばいいのに」と本気で思っていた。他人に対して「死んじゃえばいいのに」なんて思うことはないし、思いたくないけど、自分に対してはそう思える。自分が駄目な人間だということをよく知っているから。こんなクズが生まれてきた意味なんてないし、今後生きていく価値なんてない、と思うから。
今思い出すと、あの頃は自分が生きるということに対して大きな罪悪感を持っていた気がする。自責の念に駆られるというのは鬱病患者の代表的な症状だとされている。当時僕の精神が異常だったということは間違いないので、それも鬱病の症状の一つだったと言えると思う。ただ、ひょっとすると僕自身がもともと自分を責める気持ちが強い人間だから鬱病になったのかもしれない。自責という行為が鬱病発症の原因になったのかもしれない。まあ、その真相はわからないけれど、それによって余計に病を悪化させたことは事実だと思う。
さて、半年間ぐらいそんな気持ちで苦しんだわけだけど、最近はやっと心身の調子が良くなって、毎日を元気に過ごしている。以前に比べて生活が安定していると思う。鬱病の症状も全く出なくなった。
そしてそんな中、つい二日前の出来事なんだけど、バイトから家への帰り道、「今日も平和に一日が終わりそうだな」と思った瞬間、とても不思議な感覚におそわれた。言うのが少し恥ずかしいんだけど、突然涙が出てきた。一瞬、「やばい、また鬱病の症状か」と思ったけど、でもそれは、決して以前のように自分が嫌になって、自分を責めて流す涙ではなくて、むしろこう、自分を少しだけ好きになった感動のようなものだった。うまく言えないけど、今まで大嫌いでいじめ続けてきた自分を、その日はほんの少しだけ許してあげられたような気がした。
その時ふと、以前の日記にも書いた「けるくしょーずあこて」(余暇にやることを持つということ)の話だとか、「人に対して怒らないようにしよう」なんていう話だとかも、僕は全て自分を好きになるための作業をしていたんだなあ、と思った。
人間って(僕は特にそうなのかもしれないけど)、やっぱり自分の本業とされていることで納得をしていたいんじゃないだろうか。例えば仕事で充実していたいと思う人は多いと思う。ただその仕事が大好きじゃなくて夢中になれないこともよくある。そんな場合は、給料がいいとか、休み時間があるとか、人間関係がいいとか、そういうことで何かしら納得している(させている)はず。本業での自分に納得しているということは、それをやっている自分が好きなんだと思う。大好きとまではいかなくても、嫌いじゃないだろうし、許しているんだと思う。こんなふうに、誰だって自分の毎日やっていることに納得していたい。
ただ、僕はそれができなかったし、今の僕の状況では本業で納得というのはできないから(それがどういう形なのか見つけられないから)、せめて他のことをやって、それをやっている自分を好きになろうと思っているんじゃないだろうか。本当にささいなこと、趣味でも何でもいいけど、それをやっている時の自分を好きでいたい。例えば、毎日のジョギングの話だけど、それを欠かさずにやっている、というだけでやっぱり多少の自信になる。自分がほんの少しでも頑張っているという気になる。そしてこういう小さなことを積み重ねていった時、クズであったはずの自分をちょっとだけ好きになれる気がする。特にひどい状態だった時の自分を知っているから、あそこから抜け出すために、少しずつ、一歩一歩進んできたんだと感じる。そして半年間その作業を続けてきた自分に、素直に「お疲れさん」と言ってあげたい。あの涙は、そんな思いから来た涙だったんじゃないか。
また話がずれてきてしまった。
僕が言いたいのは、この経験を通して、自分を好きになるってことがものすごく重要なんじゃないかと思ったということ。自分自身に、そして自分のやっていることにある程度の納得をすること。クズのような自分だって、何かやることはあるんだと知ること。別に誇りにできるようなことじゃなくたって、それをやっている自分が好きだな、って感じること。そうやって思えることが、本当に大切なんだと思う。
鬱病で苦しんでいる人達の中には、きっと今も自分を責めて責めて、もう耐えられなくなって自殺しようとしている人がたくさんいると思う。そんな死ぬ程つらい思いをしている人に、「頑張って。死んじゃ駄目だよ」なんていう権利が僕にあるのかどうか正直わからない。いや、死んでほしくはないけど、僕にはそうやって声をかけられないような気がする。僕なんて軽い症状だったのかもしれないけど、それでも鬱病の状態が本当につらいのを知っているから。あれ程苦しい状態からどうにかして解放されたいと思うのは当然だと思う。病気が治るのが一番なのかもしれないけど、それまでにどれだけ時間がかかるのかわからないし、本当に治るのかもわからない。そこで思いつく自殺という選択肢は、果たして間違っていると言えるのだろうか。僕にはなかなか判断し難い。
ただ、その苦しい状態から抜け出す自殺以外の方法の一つとして、「自分を好きになる」ということを伝えたい。こんな話があるけどどうかな、という程度にそっと教えてあげたい。鬱病の人に「要は気の持ち方だよ。自分を好きになってみなよ。」なんてことは絶対に言えない。そういうふうに思えなくて苦しんでいるんだから。それをできない自分をまた責めてしまうかもしれないから。鬱病の時は、やっぱり自分自身に何かしら許せない部分があって、それはすぐには消せないと思う。そんな時に、簡単に自分を許して、さらに好きになるなんてこと、正直できないと思う。
でも、許せない自分の存在は消せなくても、他のところで好きになれる自分は存在していると思う。「簡単に」自分を好きになれるとは言わないけど、「小さなことで」自分を好きになれるかもしれないということだけを知っておいてほしい。例えば、本当に何もできないような状態になって、布団から全く起き上がれないような時、歌を歌ってみる。そんな状況で歌を歌う自分がなんだか不思議に思えて、ちょっと愛らしく感じられるかもしれない。
いや、この例は現実的ではないかもしれないけど、ほんのささいなことでも、自分を好きになるきっかけを持つ可能性はあるはず。毎日花に水をやる自分を好きになる、散歩に出ていろいろ観察する自分を好きになる、筋トレする自分(自分の体)を好きになる、小説を書く自分を好きになる、楽器を弾く自分を好きになる、美容院に行っておしゃれした自分を好きになる、おいしいものを食べる自分を好きになる、妄想をしてその中の自分を好きになる、誰かを好きな自分を好きになる(鬱の時はなかなか恋をするのは難しいだろうけど、別に恋じゃなくたって、どんな種類の好きという気持ちでもいいと思う)。もしくは状況によったら、社会不適合者の自分を好きになるってのもできるかもしれない。前回書いたみたいに、職場で冷遇されていたり、仕事を辞めてしまったというような時でも、今のこの状況は一見つらいけど、それは自分の信念がもたらした結果である、なんて思えば、そんなに自分を責める気持ちにはならないかもしれない。
それよりもっともっと小さなことだっていい。昨日できなかったことが今日できたら、素晴らしいことだと思う。布団から出られたら、外に一歩出られたら、買い物に行けたら、電車に乗れたら、人と会話ができたら。そんなちょっとずつの前進も、充分自分を好きになれる要素だと思う。難しいのはよくわかってる。実行するのはそんなに簡単なことじゃない。でも、その可能性はあると思うし、場合によっては症状を軽減させる効果があるんじゃないだろうか。
本当に、どんな人も多少は自分を好きじゃないと生きていけないと思う。最近よく聴いてるピチカート・ファイヴの『ヒッピー・デイ』の歌詞からパクるけど、「花に水をあげるように あなたにもわたしにも スプーンひとさじくらいの愛がなけりゃね」ということ。つらい時には、スプーンひとさじくらいでいいから、自分自身に愛をあげてみるのはどうだろうか。決して無理をする必要はないから、花に水をあげる気持ちで、自分を好きになってみてくれないだろうか。こんなクズみたいな花枯れちゃえ、と思ったら本当に死んでしまうから。空から雨が降るみたいに、他の人からたくさんの愛をもらえることがあればとてもいい。(事実、僕はもらった。)でも、実は自分自身でも少しずつ愛をあげられるんだってことを、もしよければ覚えておいてほしい。
気持ち悪いことばかり言いやがって、と思われるかもしれないけど(実際以前の僕ならそう思ってたかもしれない)、けっこうまじめに書いたつもり。これをここまで読んでくれた人達が今後、どれぐらい鬱病に接する機会があるかわからない。なるべくそうならない方がいいと思うけど、この先何が起こるかわからない。僕だっていつか鬱が再発して、自殺しようと思うことがあるかもしれない。もしくは自分自身が鬱病にならなくても、周りの人がそれに近い状態になることがあるかもしれない。そうなった時に、僕はこの「自分を好きになるってこと」を実践したいし、人に伝えたい。自分の言葉が救いになってほしいとか、皆の心に届けとか、そんなことは思わないけど、誰かの心にひっかかってくれればいいと思う。こうしたらいい、なんて勧められる万能薬では決してないけど、もし気が向いたらやってみて、とだけ声をかけてあげたい。
皆も、もしも何かのきっかけで自分がそんな状態になってしまったら、ほんの少しだけ「自分を好きになるってこと」を思い出して、それを試してみてくれないだろうか。もしも自分の大切な人が苦しんでいる時があったら、これをほんの少しだけ思い出して、そっと伝えてあげてみてくれないだろうか。こうして「自分を好きになるってこと」が大切なんだっていうことを意識してみてくれないだろうか。
我ながらびっくりするぐらい長くなったけど、これが僕からのメッセージ。
本当に最後まで読んでくれた人、どうもありがとう。
