2008/12/31

旅と出会いと恋愛と

二ヶ月半ぐらい旅に出ていました。もう色々なことがありすぎて、何を書けば良いのかわかりません。ただ、将来この旅抜きでは自分の人生を語れないのではないかというぐらい、もうとてつもなく大きなものをもらった気がします。旅から帰って来てすぐこんな気持ちになるのはおそらく初めてですが、本当に良い旅でした。またここで得たものを消化してごちゃまぜにして、自分をつくっていこうと思います。とりあえずは、良いお年を。

2008/10/18

悩みたがり屋

恋の病が治ったと思ったら、またすぐに次の悩みの種を探してしまう。今、自分の将来のことが気になってしょうがない。大学院って何よ、何の為になんのよ。果たして僕は職に就けるのかね。そもそも生きて行けるのかね。そんな自信はさらさらない。その時悩んでもしょうがないことってあるんだろうけど、漠然とした不安は持ち続けるものであって、それが突然牙をむいて襲ってくる。ぎゃあー、助けてくれえー。結局は暇人なだけなのかもしれないけど。今日のはかなり現実味のあるこころの悩みだ。虚無の境地でもなんでもない。

自由人

以前親しかった女性と会って話をする。ああ、「奔放に生きている」人なんだなあと感じた。前はそんなふうに思っていなかったけど。自分が感じた通りに行動をして、それに一切後悔しない。ほぼ傍の迷惑も顧みず。考えに考えてからしか行動に移せない自分に比べたら、よっぽど自由人だ。自分は口で色々言うだけで行動は全く奔放ではない。別に彼女をそのまま真似する必要はないだろうけど、そこに見習うべきところがある気がする。僕はいったい、何に囚われているんだ。一度でいいから何もかもから、特に自分の思考から、解放された時を過ごしたい。

2008/10/16

はて精神とは

本当に、何度も言うように「こころ」ってのが不思議でたまらんのです。幸せを運んでくれていたものが突然悩みの種になったり、夢中だったものが突然無関心になったり。まあ、それらの逆もしかりということでね。同じものを見てるのに、その見方によってそれに対するこころの動きが全然違ってくるのよ。昨日までの悩みがまったく大したことでないように思えるというのは、良いことのようであり悪いことのようであり。まあ、こんなことは今まで誰しもが言ってきたことなんだと思う。「だいたい俺は今三歳なんけど二歳の時にはもうわかってたね それは単純だけど少しの目の位置で何にでも見えるっていうことを」と坂本氏も歌っているように、同じようなことは本当に多くの人が既に気付いているはずだ。僕だって前から、見方次第で何にでもなるなら、別におっぱいに興奮しなくともさぼてんだとか消しゴムだとかに性欲がわく可能性はあるだろ!と言ってた訳だ。ただ、それを踏まえて僕が今日気付いたこと。それは僕だけなのかもしれないけど。いくらこころは移り変わるもんだってわかっててもね、いくら見方次第でどうにでもなるってわかっていたとしてもね、その瞬間瞬間でそうやって割り切って見方を変えるのはものすごく難しいのよ。まあ後で変化するんだろうと思っても、それを自力で変化させるのは困難だよ。その時の幸福の対象を突如不幸の対象にしたり、逆に不幸の対象を幸福の対象にしたり、自分ではできないってこと。しかも、僕のよくないところは、その一瞬一瞬の自分の感覚がまるで真理かのように捉えてしまうところだろうね。この前友人に「君は随分瞬間で生きるやつだなあ」と言われたのはそういうことなんだ。結局は諸行無常なはずなんだけど、自分では何も変えられない。いや、変えられるとしても自力はかなり非力。大切なのは、時間なのか、状況なのか、何なのか。この見方を自力で変える方法を手に入れたらそれこそ最強だと思う。でも、何事にもさめたやつになりそうだけど。

2008/10/15

やっぱり

しょうがないことはしょうがないなあ、と、本気で思えてきて良かった。結局は他人がどうあろうが、それを認めていたいっていう気持ちに落ち着くんだよなあ。やせ我慢なのかもしれないけど。好きな人が自分を好きになることを望まないっていうのは、まあ自分に自信がないのももちろんあるけど、そもそも人に何かしらの行動を求めるってのに抵抗がある訳だ。それができる人ってのは、そういったことも踏まえた上で、あえて自分と相手のより大きな幸せのためにも、ぜひ自分を好いてくれ、自分はあなたを好きだから、と言ってしまう度胸だとか意志の強さがあるんだろうな。よくわからないけど。とにかく、話は戻って、僕の人生のこの時期における生き方のお手本に出会えて良かったと、今思う。もう一度遠くから眺めてみて、ああ、やっぱり憧れの人だと。今まで生きてきた中でもきっと大きな影響を受けた人達はいる訳だけど、このタイトルの付け方やら、文章の書き方やら、普段の喋り方やら、色々自分が変わったなあと正直感じる。いつの間にか真似してる。この影響を受けた僕の形をまたいつか誰かに影響として与えるってこともあるのかね。よく考えたら、作家だとかミュージシャンだとかもそういう部分は多いよね。ものすごくインプットをした上で、それを混ぜ合わせて、ちょっとした独自性を入れてみる、と。いや、混ぜ方が独自のやり方なのか。坂本慎太郎だって水木しげるやらピーター・アイヴァースやらを敬愛していて、実際その影響で成り立っている訳だ。ということで、僕の今の姿の形成に役立った人にはやはり感謝したいという結論に達する。なんかこういう考えに考えた上での結論てのがまた切実さにかけるようで駄目なのかなあ。嘘くさいのかなあ。皆にとっての恋はこうじゃないのかよ。長い。こういう書き方するとどう終わればいいかわからん。

よし

ちょっとはこころが安定したよ。って言ってこれからまだどうなるのかわからないけど。前は恋に助けてもらって元気になったのに、今度は恋でこころを沈ませるってのも、なんか馬鹿らしいなあと。それに、もうすぐ旅に出るんだった。このままの状態であてもない旅に出たら、本当に途中でのたれ死ぬんじゃないかと思って、めずらしく前向き発言だけど元気で行こうという気になった。今日は旅行の計画でもしよ。

2008/10/14

恋ってさあ

初めは相手を想っているだけで幸せでいられるはずなのに、ふとしたきっかけで何か期待をし始めちゃうと、もうそこで満足できなくなっちゃうんだよね。何も望まなくても幸せだったはずなのに、相手を喜ばせたいとか、相手に振り向いて欲しいなんていう欲を持ち始めちゃったら、それが満たされないことに気付いてがっかりする。自分がそんなことできるとすら思っていなかったのに、一旦相手を喜ばせたんじゃないかとか、ちょっと自分に気を向けてくれてるんじゃないか、なんて勘違いが働くと恥ずかしいけどすごく嬉しい。でも、それが本当じゃないってことや、これ以上同じ喜びは味わえないんだってことがすぐにわかって残念に思う。あと、そんなことちょっとでも思った自分に嫌気がさす。何だろう、この構図。つまりは望むからいけないのか。欲を持つからいけないのか。足るを知れてないから。欲望を無理矢理抑える必要はないと思うけど、それが満たされない時にもこころが不満足にならないようになりたい。満たされない。それでもやっぱり、既に満たされているところはあって幸せだなんて。

2008/10/11

安心する方法

どうしても不安になった時、安心する方法。それは、自分が変態だと思うこと。

正直、こうあるべきだとか、こうなくてはいけない、っていうような感覚に取り付かれてすごく苦しくなることがある。慣習と呼ぶのかわからないけど、誰がいつ決めたのかもしれない枠組みに、いつの間にか囚われてしまう。普段は、そんな既存の形なんてくだらなくて、それぞれの人間が自由に生きられれば良いと思っているのに、自信のない僕は特に、自分のやり方でやり通すことができない。それで、自分の気持ちとのギャップに苦しんだりする。

でも、そんな時、ああ、自分は変なやつなんだなあ、と思うと妙に安心する。自分の感覚は少しおかしいんだと自覚すると、ある程度の考え方や行動が許せるようになる。別に「これが俺だ、俺のやり方だ」なんて自信を持つ必要はない。むしろ、自分という人間は、皆ができることができない不能者、落ちこぼれなんだなあと思う。ああ、僕はアンダードッグだな、なんて。それだけでも、十分楽になる。当然、折り合いはつけないといけないけどね。

僕は変人でありたい。そこに後ろめたさを感じることのない変態でありたい。

2008/10/06

足るを知るとは

もう何度も言っていると思うけど、足るを知るということは、本当に、本当に難しい。僕は半年ぐらい前に一度、自分がやっと足ることを知れたんじゃないかと思った。自分から何も望まずに心から幸せでいられると、本気でそう思った。でも、浅はかだった。自分はどうやらそんな人間じゃなかった。

事実、あの当時、あの瞬間は、自分から望まずに満足していられたんだろうと思う。でも、それはただ単にその状況がそうさせていただけなのだということがわかった。あの当時、僕が何も望まないでいられたのは、それが手に入るだろうなんて思ってもみなかったからだ。どん底の自分が何かを得るなんてこと、想像すらできなかったからだ。自分は何もかも失っていた。もう得られるものなんて何もないと思っていた。その状況でこそ、本当に謙虚な気持ちになれた。多くは望まない。ただ生きているだけで、人と話していられるだけで、好きな人のことを想うだけで、その全てが僕を満足させてくれた。自分からは何も求めず、ただそこにあるもの全てが愛おしかったし、それだけで幸せでいられた。でもそれは、その状況に限ってのことなのかもしれない。いや、そろそろ、そうなのだと認めなくてはいけないと思う。

もう何も望まない、僕は幸せだ、これでずっと幸せだ、と思っていた時、ふと思いがけず何かを与えられた。望んですらいなかったこと、想像だにしていなかったことが、僕の目の前に降ってきた。初めは驚いて、本当に戸惑って、信じられなくて、受け取らないつもりでいた。でも、何度か与えられると、受け取っていいのかしらと思い始める。半信半疑で蓋を開けてみたら、ものすごく嬉しいものがつまっていた。まだそれが自分宛だなんて信じきれないけど、それでもやっぱり嬉しい。嬉しくてしょうがない。そんな幸せが存在してるだなんて知らなかったし、望んですらいなかったのに。いや、知らなかったから、望みもできなかったと言うべきか。

問題は、その後だ。この自分が望んでいなかった幸せ、それを覚えてしまったら、どうなるか。やっぱり、また欲しいと思ってしまう。欲望はどんどん加熱する。できればまた味わいたい。その幸せが欲しい。こころの奥底では、駄目だ、調子に乗るな、そんなもの望んでいなかったのに、と言い聞かせてるんだけど、それでも欲しい。できることならば、もし許されるのであれば、それを手に入れたい。与えて欲しい。これじゃあ、全然足るを知れていない。欲望が肥大化する時点で、満足していないんだから。

つまりは、僕はあの何も望まずに満足できていた当時、その状況によって欲望がゼロに近い状態になっていただけなのかもしれない。本当はもっともっと欲深い人間なのかもしれない。足るを知るなんて言う賢者に近づけたと思ったのは、ただの錯覚だったんだ。

実際、その可能性はあると、少し気付いてはいた。言葉に出さなかったけど、自分のその当時の状況が特別だからこんなに幸せでいられるのかもしれない、というのは意識していた。それに、人間の欲望がそうやって常に成長していくってことも、わかっていたつもりだ。だから、それ自体は、そんなに自分を責めることではないのかもしれない。誰だって、足ることを知っている訳じゃないんだ、って。

でも、それを、自分が何も望まずに幸せを感じていられるからって、まるで真理に到達したかのような気分になって、熱っぽく周りに伝えていた自分が、本当に浅はかだと思う。それは、宣言できるようなことではなかったんだ。ただ単に、状況に助けられていただけなんだ。何故それに気付きつつも、はっきりと断定できなかったのか。自分の気持ちがずっと続くような錯覚に取り付かれてしまったのか。そこが一番自分の未熟な部分だと思う。

そして、今思うこと。一度与えられる喜びを知ってしまった犬は、それを断たれた時、どうなるのか。やはりそれが自分には相応しくないものだと、自分が得られるような幸せではなかったとわかってしまった時、どうなるのか。ああ、やっぱりそうだよね、よく考えたら何をつけあがっていたんだろう、自分はもともとそんなこと期待できる立場じゃないよね、なんて思えるのか。一度喜びを知って、またそれを失った時、また何も求めずに幸せになれるんだろうか。

実際、それができるのであれば、それこそ足るを知ることなんじゃないか。自分の中の欲望に気付いた。それを認めた。望むこと自体は、それでしょうがないのだ。足るを知るのは我慢することではない。満足していなければ、足りていないのだから。でも、その自分が望むものが満たされなかった時、それでも満足できるのかどうか。失った時にも幸せでいられるのかどうか。それが、本当に足ることを知っている人なんだとそう思う。

そして、今、正直、自分にその自信はない。いや、どうなるのかわからないというべきか。本当に、わからない。

なんだか抽象的なことばかりを並べてしまったので、数日後にもう一度、具体的な事柄を並べてみようと思う。

2008/10/01

自分にとって

大切なもの、必要なものがちょっとだけわかった気がする。
こういうものをたくさん集めておけば、こころが沈んでも大丈夫なのかもしれないな、と。

2008/09/28

ふと思ったこと。

やっぱり不安。前回書いたことに加えて、果たしてこれでよかったんだろうかという気持ちが出てきた。何でだろうね?何でいつもこういうこと思うんだろうね?自分が望んだことに向かって努力して、それを達成したはずなのに、それ自体が疑問に思えてくる。確かに楽しみなことはたくさんあって、これからやろうとしてる勉強だってものすごく興味はあるんだけど、問題はやっぱり将来のことなのよ。その後何するつもりなのかなあって。僕は大学院進学を選んだ。自分の意志で。その後のことを選択するのも自分だ。全ては自分の責任で。つまりはその状況に耐えられるのかっていうのが不安なのかもね。そして結局は、主体性がないということにつきる。自分の意志が固くない。他の人の目を気にしていて、自分の選択に自信が持てない。気にしていないなんて言いながら気にしてる。自意識過剰。慣習やら何やら、あらゆる枠組みに囚われない生き方をしたいなんて言いながら一番それを意識しているのかも。

でも、そうやってつらつら考えていてふと思ったんだけど、僕が何やったって、皆それをけっこう認めてくれるんだよね。良い意味では、周りの人達は自分が思っているよりも自分のことを高評価してくれているみたいで、何やっててもいいじゃん、どんなことだってできるよ、なんていうニュアンスのことを言ってくれる。本心かどうかはわからないし、今までそんなこと思ってもみなかったのでまだつい疑ってしまうんだけど、とにかくそういう人達はいる。だから、僕がどんなことやっても、それを認めてくれる人はいるらしい。

それからもう一つには、別に悪い意味でも何でもなく、僕が何をしていたって他の人は別に気にしないというのもあると思う。他の人の人生なんて、どうなったってそんなに関心は無いよね。別の人間なんだから。これは僕にとってもそうで、自分以外の人がどんな人生を送っていても別に構わない。

ただ、その別に構わないというのに唯一条件を付けるとしたら、その人がその生き方を自分で選んで、それで満足してるなら、ってことだ。例えば僕の大切な人がどんな人生を歩んでいようと、その人が幸せならそれでいい、と結局はそういう気持ちだと思う。それも人を認めているっていうことだと思う。

だとしたら、僕が何を選んでどう生きていようと、それで僕自身が幸せを感じてるんだったら、周りの人にとっては何も言うことはないってことだよね。まあ、単純化し過ぎかもしれないけど、自分の責任で何かをして、それで幸せと思えれば、誰にも迷惑かけないんじゃないか。この幸せさえ持っていれば、何をしていても人は僕を認めてくれるんじゃないか。僕は僕がやることで幸せになっていたいと思う。そうありたい。実際そんなふうに生きられないのはこれまでの経験からも目に見えてるし、こんな気持ちどこまで続くかわからないけど、そう思っていたい。

2008/09/26

どうやら

受験に合格したらしい。自分の見間違いでなければ。

これで来年から晴れて大学院生になる。半年前に立てた目標を果たせたってことだ。それはとっても喜ばしいはず。

そのはずなんだけど、つくづく損な性格をしてると言うか何と言うか。なんとなく手放しで喜べない。

まず、まだ実感が沸かない。合格発表の時に受験番号見ただけじゃ、なんのことかよくわからない。ひょっとしたら間違いじゃないかと今でも思う。

それと、自分なんかが研究やってけるのかという不安がかなりある。受験に合格したからと言って、急に自分に自信がつくとか、情けなさや恥ずかしさが消えるなんてことはない訳だ。当たり前だけど。

それから、合格と不合格が本当に紙一重だったような気がしてならなくて、その偶然の出来事について大喜びするってのに抵抗がある。確かに努力はしたけど、合格したのなんてただ幸運が重なったからのように思える。特に合格発表を見ると、自分の番号があるか、ないか、というだけ。僕の前の受験番号の人は落ちてた。僕だってその立場にいる可能性は大きかったと思う。そうすると、この番号があるか、ないか、ってのがそんなに重要なのかという気になってしまう。それに、不合格だった時の自分を想像して、そいつの手前、なんか喜びきれない、みたいな、そんな気分になる。無駄な考えかもしれないけど。

以前、蝶番がどう回っても、つまり合格しようがしまいがその事実を受け止めて、笑顔で最高!って言いたいなんて言ってた訳だけど、それはできなかったということかな。せっかく合格したのに、「最高!」って言ってないもんね。これからそうやって思えるようになるのかな。自分に「よく頑張った、お疲れさん」なんて言えるのかね。その方がいいんだろうけど。何にしろ、目標達成、受験合格は喜ばしいはずなんだから。

さて、そういうことはおいおい考えていくとして、旅に出ようと思う。これも前から計画していたこと。少し長い旅に出て、何かを考えてもいいし、何も考えなくてもいい。そんな時間を過ごそうと思う。

2008/09/18

気が狂う

一歩手前。
俗に言うミソりの症状がたまに。
情けない、恥ずかしい、思い出し奇声。
「死んでしまいたい!」とかなんとか。
僕の人生からこの気持ちは消えないのかもしれない。
一人でも、酒を飲まずにはいられない。
終わったのに。
全部終わったのにぃ。
やっぱり人生の転機を楽しむだなんて、そんな余裕はない。
転機だからというよりは、自分を試される場がつらい。
明日には全てリフレッシュできるのかしら。
一週間以内には気持ちを切り替えていられるのかしら。
仮に合格したとして、手放しで喜べるのかしら。
この情けなさ、恥ずかしさは消えるのかしら。
はて人間は。

2008/09/11

いってきます

蝶番の時を、その瞬間を、
とくと味わってきます。

どう回ろうが、
笑顔で最高!
って言ってきます。

時よ、止まるな。
お前は美しい。

では、いってきます。

2008/09/10

腱鞘炎に

なりそう。

勉強ってすごいなあ。
努力ってすごいなあ。
エネルギーだなあ。

この先何があろうと
このエネルギーが
決して無駄じゃなかったと
思いたいよ。

2008/09/06

臭いものには

蓋をするってね。
わかんないことには
目をつぶるってのが大切なのよ。
明日こそ、明日こそ。

今日ふと気付いて感動したことは
「タケコプター」は異分析(metanalysis)によって
つくりだされた複合語だってこと。
本当はhelico(旋回する)+pter(翼)なんだってさ。
なのに竹+コプターって!
コプターって何だよ。
まあ、バーガーみたいなもんだね。

さて、一年後はイギリスにいるのかな。
はたまたアイルランドにいるのかな。
いや、国分寺かも。

2008/09/05

ギターの弦

を緩めた。
しばらく弾かない。

新しい知識を入れるより、
今ある材料をどう使うかだね。

ところで、こどもの頃って何故だか、
自分が映画の中にいるような
そんな感覚を持つことがよくあった。
自分は映像を観てるだけで、
その世界に関与はしていないような、
そんな感覚ね。
その頃から主体性がなかったのかな。

意味

論が、難しすぎる。
形式意味論よくわからん。
論理学、数学用語ちんぷんかんぷん。
でも付け焼き刃じゃどうにもならないだろうし、
今から勉強するのもねえ。
そういうのが出たらもうしょうがないぜ。
こっちもちんぷんかんぷんなこと書いてやる!

2008/09/03

もう一度

謙虚になろう。挑戦者だ。

それにしても、ことばの世界っていうのは奥深いね。
もうどんだけ続いて行くんすか。

足るを知ること

はやはり難しい。自分では何も望まないつもりでいても、いざ与えられると喜んでしまう。その喜びは欲求につながる。そして初めは望んですらいなかったのに、与えられないことを残念に思ったり不満に感じたりさえする。結局は状況によって欲望は肥大化していくものなのか。でも、初めから無欲になるというのも、建設的でなくて寂しい。それじゃ何も発生しない。欲求を持ちつつ、それが満たされなかった場合にも納得できることが重要なのか。

2008/09/01

正直ね、

ちょっとしたきっかけで泣き出しちゃうんじゃないかっていうような状態の時がたまにあるんだけど、でもまあ今は、そんなに思い詰めてもしょうがないなあと思ってるのよ。なるようにしかならない。いや、努力はしよう。でも、その後は、ねえ。それに駄目だったとしても、それはそれでまた何かを始めるきっかけになる訳だし。そもそも、一年前を思うと、ここまで頑張れるようになった、っていうだけすごいかなあなんて。別にこれは受験に失敗した時の言い訳を今からしようってんじゃなくて。うん、結果はどうあれ、一ヶ月後に自分に、よく頑張った、お疲れさん、なんて爽やかなこと言えるようになっていたいなあと。そして同時に自分の無能さと努力の足りなさも受け止めたいなあと。

2008/08/31

終わった終わった

今日で8月も終わり。仕事も終わり。もう終わるものは何もないっていうぐらい終わり。ああ解放感。後は受験だけですね。

2008/08/30

ブンケンブンケン

文献読んで色々学説を学んでいくと、それぞれ結構言ってることが違ってて、体系的になりつつあった知識が崩れそうになるのよ。もうねえ、予備知識のないお馬鹿さんにはどれを信じたらいいのかわからないの。頭混乱。

蝶番が

例えどんな回り方をしたとしても、対応できるようになっておこうと思う。と言うか、人生どんな転び方したって楽しみじゃない?なんて爽やかでいたいなと。別に楽観的なんじゃあないけどね、前も言った様に、せめて二、三兎ぐらいは追っておこうと思う訳よ。

2008/08/29

終わり

終わり、終わり、最近色々なことがどんどん終わっていくよ。最終回ばかり。物事の終わりというのはなんだか感慨深い。で、当たり前だけどこれから新しいことが始まっていく訳だ。でも正確にはまだ何が始まるか決まってないんだよ。これから一ヶ月ぐらいは、まさにdate charniereというやつだね。蝶番のように、ぐるっと回るその瞬間よ。僕の人生どう回るか。

2008/08/23

って、熱いお風呂に入る瞬間とか、ビールを流し込む瞬間とか、射精する瞬間とか、一瞬なんとも苦しそうな顔するでしょ。あの表情、なんかいいなあと最近思った。本気で気持ち良いんだろうなあと。

2008/08/21

存在の認識

人は自分が思っているよりもはるかに強くその存在を認識されているのかもしれないとふと思った。

僕は僕の存在を認識しているし、他の多くの人達も認識している。評価の高低は別として、その存在を認めてはいる。ただ自己認識についてはブレがあって、時にまるで自分が存在していないかのような不安に襲われることがある。そんな時は他の人に自分の存在を認識してもらう(認識されていることを確認する)ことによってふっと安心する訳だ。

そこでふと思ったのは、初めにも書いた様に、人間自分自身が感じているよりもかなり強く周りから認められているのかもしれないということ。別に常日頃からという訳ではなくて、普段は忘れ去られていたとしても、過去ものすごく強く認識された瞬間はあったはずだし(生まれた時とか、抱き合った時とか、ケンカした時とか何でも)、それに今でも自分から何か発すれば割と簡単に、すぐ認識されるだろう。例えば話をするだけでも、自分は認識されているということなんだ。会話が成立するのであれば、それはお互いの認識だ。

そうすると、こうやって自分が認められた瞬間はあったし、今でも認められうるというのは、きっとものすごく重要なことなんじゃないかと思う。自分が存在するためにとても大切なことなんじゃないかと。僕も皆も、自分が思っているよりもはるかに強く、その存在を認められているんだよ。

2008/08/20

こころ

何を今さらという話かもしれないが、こころって何だろうなあと不思議に思う。嵐の海みたいにしけまっくてる時があると思えば、波一つない海のようなそんな穏やかな時もある。それで、後者の時はある種悟りの境地に立った様なというか、もう自分は何事にも動じないんじゃないか、こんな穏やかさがずっと続いて行くんじゃないだろうか、なんて本気で思ってしまう。ただ、悟りとは言っても、その自分に自信を持っていると言うよりは、もう何もかもどうでもいいと言うか、もう色々なこと考えすぎて面倒くさくなってあらゆることに冷めてしまったようなそんな状態だったりする。そして今、それに近い。なんだろうか、この穏やかさは。まあ、実際は外界からの出来事によって簡単に覆されるんだろうけどね。

2008/08/17

〜かける

自分はものすごく無力だとわかっているはずなのに、たまに突然、何かに働きかけようという意識を持つことがある。社会にコミットするとかそんな大きなことではなくても、何かしら誰かしらに影響を与えようとふと思う時がある。で、大抵の場合、その後そんな自分が恥ずかしくなる。自分から周りに影響を与えるだなんて、何を思い上がってんだ、みたいな。お前はそんなに大したことできる器じゃないだろう、もっと全てを自己消化しろ、という気持ちになる。全てを自己消化と言っても、周りとの交流自体は問題ではなくて、あくまで影響を受けるという受け身側であれば気にならない。でも、意識的に自らの影響を与えようとすることに何か抵抗を持っている気がする。自主性がなさ過ぎるのか。もっと伝えられる側を意識した自己表現をするべきなのか。例えば個人への伝達に限って言えば、相手に嬉しいと思ってもらう為に何か行動をとるとか、楽しいと思ってもらう為に何か行動をとるとか、もしくは嫌な想いをさせない、悲しませないために何か行動をとるとか、そういうこと。実際そういう気持ちの行動をとることはあるんだけど、やっぱり何か照れくさい感じがするんだよなあ。相手の反応を期待する、信じるというのも何か腑に落ちないというか。何で自分が勝手に相手の気持ちを察してるんだろう、自分にわかるはずはないし、相手もわかられたいなんて思ってないかもしれないのに、なんて。いやそれより、僕は今まで何かしら誰かしらに影響を与えてきたんだろうか。そりゃ、生きているだけで何か働きかけているのかもしれないけどね。うーん、とにかく、僕は反応を予測した意識的働きかけを良しとしないところがあるのかもしれないとふと思った。

永遠のよそ者

海外かぶれってだけだと思われるかもしれないけど、僕ぁやっぱりね、どうにも外国が好きなのよ。海外にいると、ウキウキして楽しいのはもちろんだけど、同時にホッとするような安心感があると言うか。で、まあ今になって初めて気付いた訳ではないんだけど、その気持ちはどこから来てるのか、って考えると、やっぱり「よそ者でいられる」ってのが嬉しいんだろうなあと思うんだよね。

まあ前から言う様に僕は天の邪鬼みたいなところがあって、自分が所属しているものを素直に好きになれないと言うか、いや、好き嫌いではなく、どうにも違和感を持ってしまうようなことが多々あって。なんかこんなこと言うと自分は周りと違うぜ、特別だぜ、なんて格好付けてるみたいですごく嫌なんだけど。でも、誰にだってあるでしょ、大きな何かに同化しきれないような感覚。まあ、それを押さえられないのが社会不適合者たる所以なのかもしれないけどさ。

で、話を戻すと、そんな僕が海外にいて安心感を持つのは、その生活している外国の文化だとか慣習だとかにもやっぱり馴染めずに疑問を持って溶け込めなかったとしても、自分はよそ者なんだからそれはある種当然だって思えるからなのかなあとちょっと思う。日本にいたら、自分の感覚やら考え方やらが周りと違うことに不安を覚えることが正直あるけど、海外にいたらその違いも当たり前のこととして片付けられるし、無理に何かに合わせようとする必要もないし。育って来た環境が違うんだしねえ。(いや、そんなこと言って、自分の意志がない僕は大抵の場合かなり周りに影響を受けちゃって自然にそこの文化に合わせようとしちゃうことも多いけど。)

でもまあそう考えるとつまりは、やっぱり自分は日本という国だとか、その文化だとか、生まれ育った環境に対して帰属意識というのが働いているんだなあとも思う。何かに馴染めないのは、そこに帰属意識があるから、ってことなのかね。

で、まあ一般的な意見からすれば、「そりゃあ誰だって自分が生活しているところのしがらみやら何やらから抜け出て海外生活なんてしたいよ。そっちの方が絶対楽だもんね。自由にやれるんだからさ。でもね、そりゃあある社会で行きていく以上ある種の逃げでしょ。都合の悪いところから抜け出るみたいなね」ってな感じだろうかね。そんなひどい言い方はしないか。でもまあ、ええ、そうなのかもしれないですよ。非常に浅はかですよ。今日言っていることは特に浅はかだと自分でも思いますよ。

でもねえ、何にしろやっぱり僕は、永遠のよそ者でいたいんだよなあ。

2008/08/14

構造主義者の主体性なき実存

最近やっと、構造主義と実存主義ってのが、なんとなくわかってきたような気がする。つまり後者(特にサルトルが言うような実存)は個々の人間の自由意志(とそれに伴う責任)を尊重...と言うか信じていて、前者(レヴィ=ストロースとかのやつ)は人間なんかよりもっと大きな単位の(と言ってしまえるかどうかはわからないけど)言語だとか文化そのものだとか、枠組みの方を重要視してるっていうことでしょ。違うかな。まあそうだとして、じゃあ自分はどうなのかと考えると、かなり構造主義的な考え方をしている気がする。ここ数年は特にそう。前はかなり実存主義的な考え方が好きだったけど。と言うのも、構造というものの存在は意識しながらも、それに抵抗する自分、そこから抜け出そうとする自分、また構造にぶつかった時に、今まで思っていたのとは違う(構造に規定される通りではない)自分を発見して、それこそ特異な自分という存在なんだ、なんていう意識を持っていたような気がするから。でも、だんだんとその特異だと思っていた、そして自由意志だと思っていた自分の行動まで、実はまた別の構造に規定されているだけのような気が、最近ものすごくしている。なんか大空を飛び回っているつもりだったけど、実はお釈迦様の手のひらの上だった、みたいな。例えが悪いかな。まあそれに、実際の自分は、それ程自由意志と意識をして、というか主体性を持って構造に立ち向かっていたというよりは、いつもたまたま構造からあぶれてしまっていただけのような気がしないでもない。かなり話を単純化して、ここで言う構造という枠組みを一つの社会的慣習という事項に適用してみたとすると、自分はその枠組みにたまたま馴染めず、なんとなく漠然と疑問を持って、でもあくまでなんとなく程度だからそこまで立ち向かう気にもなれなくて...という状態が長い間続いている。だから、夏目漱石の『それから』とかカミュの『異邦人』はその気持ちを代弁してくれたかのようでどうにも好きなんだよなあ。特にカミュなんて実存主義的だなんて言われることもあるけど、『異邦人』ってかなり異質なんじゃないかと思う。カミュの作品でも、『ペスト』は相当主体性のある社会への関わりを訴えていて、自分にとってはかなり爽やかでどうにも受け入れにくい。なんかそれこそサルトルとかの言うアンガージュマンみたいな。よくわからんけど。でも『異邦人』の自己意識ってのはもっとなんとなくでしょ。全然沸き上がってくるような自由意志ではないでしょ。アンガージュマンを主体的な実存主義だとしたら、こっちはもっと反主体的な実存主義なんですよ、っていうことを言っているような気がする訳。だから僕の意識も、あらゆる構造というものを意識したせいで、たまたまそこから溢れ出てしまったと言う、別に全然主体性のない実存的考え方なのかなあ、なんて。ただね、話は戻ると、そんな構造の捉え方だって、そもそも構造主義的な考えに影響されて、あらゆる構造を意識する様になって初めて生まれたものなのであって、それすらそういう思想の構造であって、それに支配されてるんじゃねえか、なんて思ったりもする。でもやっぱり最後の最後で、そういう全ての構造から抜け出た自分をある種の理想としてしまうあたり、実存を少しでも信じてはいるのかなあとも思ったり。実現出来ない実存をやっぱり信じてみたい、みたいな。結局どっちなんだろうね。

2008/08/13

悦び

昨日ふと思ったんだけど、性的興奮なんて、消しゴムだとかサボテンだとか、何からだって得られるんじゃないか。小学校の時に好きな女の子の髪の毛やらリコーダーやらで興奮してるやつはいたらしいし。例えば耳を劈くようなノイズ音だって、好きなバンドのライブで聴いてたら、最高の音楽のように感じられちゃったりするしね。いや、別に好きな何かの隣接物だから、とかそんな付加的な要素がなくとも、かなり無機質な空気のようなものにだって、場合によっちゃあ興奮を覚えられるかもしれん。だから逆に、多くの人達が興奮を覚えるようなことに対して興奮しなくたって、しょうがないと言えばしょうがない訳だ。快楽なんてそんなものなのかなあ、と。

皆さん

普段あんなに入れたがってるのに、何で入れられることにはそんなに抵抗があるんだろうか。入れたい気持ちがあんまりわからんけど、入れられたくない気持ちもあんまりわからん。

2008/08/10

うやかなっとで考え中

最近思考がぐちゃぐちゃのどろどろで、頭の中でずっと音楽が鳴ってたり変な生き物が踊ってたりするような状態の時が本当にある。で、そういう時にバイトがあると「やべえ、こんな状態で仕事できるんかや?」なんてちょっと心配になるんだけど、始まってみると意外に何事もなかったように同僚と話をしたり接客したりしている。頭の中は遥か遠い所にいってるんだけどね。そう言えば前に、タルるートくんの「きくんだあ」(だっけ?)を自分の頭に当てられたらきっと大変だよー、なんて言ってた人がいたけど、実際そうなったら確かにやばいかもなあ、なんて思いつつ、ただきっと自分の思考を無理矢理言語化して聞かせたところで周りの人達は理解不能なんじゃないかなあともやっぱり思う。サピア=ウォーフの言語相対説なんかを全面否定するつもりはないんだけど、個別言語が思考を規定してるなんて言っても、じゃあ英語だとか日本語だとかの個別言語じゃなくてもっと個別化した個人それぞれの言葉の使い方もあって、それが影響してきたらもう手がつけられないんじゃないかしらと。と言うかそんなことより、思考なんて常にあっちこっちに飛びまくってるもので、自分ですらまとまりきらずに理解するのに苦労してんだから、それを人様が突然聞いてみた所で、「はあ?何の事やら?」ってなるに決まってるだろうと思う訳だ。そんなにぐちゃぐちゃな思考回路してるのは自分だけかもしれないけど。いやあ、むしろ「きくんだあ」欲しいかもしれん。自分の為に。そしたらうだうだ考えずにすむかも。日記も書かずに頭から聞こえてきたのをただ録音してればいいだけなんてね。

2008/08/09

カフェオレ

はぬるいぐらいが調度良いと思う。熱くもなく冷たくもなく、牛乳の甘みが一番引き立つぐらいの温度が一番おいしいと思う。

2008/08/06

なんか英語ばっかり

最近周りから「暑い、暑い」って聞こえてきて、まあ確かに暑いから自分も「暑いね」なんて言うんだけど、実は暑さがそんなに不快じゃない。だからそう言いつつもその「暑い」に不快をこめていないつもり。

特にここ数年、暑いのってそんなに嫌かしらと思う。扇風機は使うけど、クーラーは付けない。なんかもったいない。別に自分はエコだぜなんて格好付けるつもりは全然なくて、暑いなら暑いでいいじゃないか、と。いや、この言い方も、なんか格好付けてる感じで嫌だけど。

で、まあ自分も暑くて不快を感じた経験はある訳で、じゃあ暑さによる不快ってのはどんなことだっけかと考えると、やっぱり「汗」かなあと思う。汗をかくことが嫌だと思うと、暑いことが不快に感じるんじゃなかろうか。確かに自分の汗の臭いをかぐと、臭え!と不快になる。あと、その汗をかいた状態で人に会うと、かなり嫌になる。汗かいてる状態を人に見られたくないからね。

でも、別に汗をどんだけかいてもいいような状態だと、そんなに暑いこと自体が不快でもないんじゃないかなあ、とふと思う。例えば家の中でだらだら汗かきながら本なんか読んでても、そんなに嫌じゃないもんね。別に誰かに会う訳でもないし。汗かいたらふけばいいし。

つまり、汗を肯定すれば、暑さは不快ではないのだ。そして更に言うと、人と交流のない引き蘢りにとって、暑さは不快ではないのだ。


で、話は変わるけど、ちょっとまたブログをお休みしようかと思う。忙しいというのもあるけど、なんか頭の中を整理せずに、しばらくごちゃごちゃのままにしておこうかな、なんて。絶対に二ヶ月以内には再開する!

2008/08/01

馴染んでる

この前、小学校の時からの友人が自分のこと「幼なじみ」って呼ぶのを聞いて、なんかちょっと嬉しくなっちゃったねえ。ああ、自分も誰かにとってそんな存在なの、なんてちょっと照れくさいような。別にそんなこと考えなくとも、とにかく「幼なじみ」って言葉の響き、いいよ。馴染んじゃってるんだもんね。人間同士が。

2008/07/26

クレイジーワールドで

これからしばらくやっていきます。楽じゃないでしょうけど。

2008/07/23

シンスプリント

足底筋膜炎に引き続きまして、脛骨過労性骨膜炎というのになってしまったようです。なんだか二、三ヶ月前からスネの骨が痛いなあとは思っていたんですが、医療をやっている友達に看てもらったら、シンスプリント(脛骨過労性骨膜炎)と診断されました。まあ簡単に言えば、足全体の疲労が取れずに、スネの骨の一部分に負担が集中してしまっているのだそうです。ランニング障害の一つではあるそうなんですが、僕の場合はおそらく毎日の立ち仕事と、そのまま足を休めず固いコンクリートの上を走っているのが原因とのこと。痛みも割と強いので、このまま放置しておくと疲労骨折するかもしれないと言われました。なんだかやっかいなことになっちまいました。安静にした方が良いということなので、しばらくランニングはお休みします。そして炎症箇所を冷やさなくてはいけないそうので、今もアイシングをしてます。この半年ぐらい、運動もして、バランス良く食事も取って、体の調子が抜群に良いぜ、なんて思っていましたが、やり過ぎるとなんだかんだ不具合がでてくるみたいです。健康管理とは難しいものです。

2008/07/22

海の日を経て思う

久しぶりの更新です。前回お休み宣言をしましたが、なんだかこのままずっと更新しなくなってしまいそうなので、ただの日記のような内容でも何でも書いておこうと思いました。

海の日に、能登半島の海辺へ行って参りました。と言いましても、開けたビーチのようなところではなく、過疎地とも言われる小さな漁村へ行ってきたのです。そして素潜りというやつを体験させてもらいまして、自力でウニを取りまくってやりました。その場で塩水で洗って食べるウニは最高でした。何もかもが初体験で、喜びいっぱいでした。地元の人達の優しさにも触れて、嬉しさ満点でした。日焼けで背中がヒリヒリすることだけを除けば、大満足の二日間でした。旅の良さを再確認しました。

さて今、現実に戻りふと思うことがあります。半年前に掲げた目標の一つである大学院入試の受験日は刻一刻と迫ってきていて、残すところあと56日なのです。もともと色々な目標を掲げたのは、今後生きて行く為、自分の人生においてもう一度歩き出す方向を定めるのが目的でした。そしてこの半年間を振り返ると、少しずつ何かに向かって自分なりに頑張ることはできていたような気がするのです。だからもうあと56日、努力をしたいのです。頑張りたいのです。例え良いとされる結果がついてこなくとも、せめて一生懸命やりたいのです。本当に、一番大切なのはそれなのです。

2008/07/02

正直であることと伝えること

自分自身の気持ちに正直であること。その気持ちを正直に伝えること。これは僕が以前からずっと目標としていたことなのですが、この三ヶ月間はそれがなかなか実践できた時期だったのではないかと思います。かつてない程、自分の気持ちを本当に見つめることができたような気がしましたし、それを自信はなくともしっかりと表現できたような気がしました。そしてこの三日間の東京滞在でも、自分の全てを出した訳ではなくとも、自分の気持ちや考えを大声で(時に大声過ぎるぐらいに)伝えたように思います。これは前回書いたように、今しかできないことだという意識があったためなのかもしれません。

さて、その今までできなかったことをした期間を経て、少しだけ僕の中で気持ちの変化があったように思います。今、自分の感謝の気持ちだとか、迷いも含めた考えだとか、自分の状況だとか様々なものを人に思い切って伝えたことには満足していますが、やはり大切なのはそれだけではないのかな、とも感じています。そう思ったのは、ある友人達に、全てを伝えることだけが良いことではないし、中には伝える必要のないこともある、と優しく助言されたことにもよっています。以前から言っていたことではありますが、伝えるという行為自体は自己満足であり、また時に自分勝手にすらなりうる、とも言える訳です。別にこの三ヶ月の自分に対して深く反省をしているというつもりはありません。むしろとても充実した時を過ごせたと満足していますし、良い体験だったと思っています。ただ、やはりそれによってたくさんの迷惑をかけたのかもしれませんし、誰かを不快な思いにさせたこともあると思います。今は僕の状況が状況だったため(つまり、精神的に病んだヤツが立ち直ってきたという状況があったので)、多めに見てもらえた部分もきっとあったのでしょう。いつもいつもこんな話し方をしていては、自分にとって損になることもあるかもしれません。

すると今後は、伝える内容とその伝え方について、もう少し工夫をしていかなければいけないのかもしれないと考えています。やはり、今の自分、正直な自分を伝えたいというような欲求は今後も持つことがあるでしょうが、まずそれをうまく表現する方法を見つけていきたいなと思っています。作家が小説を書いたり、詩人が詩をつくったり、ミュージシャンが音楽をつくったりするように、何かを「重たく」ないように、そして実際は他の人達に伝わらなくても、もしくは伝わったとしても不快にさせないように表現できるのが、一番良いことなのかもしれないと思っています。そういう意味では、自分の日記やこのブログもある種の表現方法の一つではある訳ですが、それをどう使っていくのか、まだはっきりとはしていません。そしてまた、人と話す時には、その内容について気配りが必要である場面もきっとあるのでしょう。簡単に言ってしまえばバランスを取ることが必要だということですが、そうしながら自分自身も納得できるようになりたい、とただ漠然とではありますが、考えています。

この三ヶ月で表現をしたことに満足感、達成感、充実感があるのと同時に、自分の外に何かを伝え過ぎてしまって少し疲れているというような気もします。(まあ、この疲れは単に三日間の暴飲、暴食と移動の疲れなのかもしれませんが。)僕は今日も幸せを感じたけれど、人々に対する感謝を感じたけれど、やっぱり性欲は感じないけれど、それは誰かに伝える必要があるのかどうか、そんなふうに迷ったりもします。例えば、別にこのブログはほとんど誰にも読まれていなくとも、僕が伝えるべきではないこともひょっとしてあるのかもしれないと思ったりもします。まあ、そういったことだけが理由ではないのですが、一度このブログを少しだけお休みしてみようと考えています。と言っても、少しだけなので、一週間も立てば戻ってくるかもしれませんが。僕が何かを、誰にも伝わらなくとも伝えてみたいと思った時に、また戻ってきます。

2008/06/27

命の価値は変動価格制、そして皆さんへ

人の命の価値というのは、変動価格制だと思います。

僕は、事あるごとに「命は貴い」と言ったり、それを子供達に伝えようとする大人につい違和感を持ってしまいます。そもそもそんなことが、子供に伝わるのかどうか疑問だというのもありますし、本当に自分自身、自分の命が大切だなんて実感しているのか、とも思います。だいたい、価値観という言葉があるように、ものの価値というのは誰かしらが決めるものなのです。そして命の価値なんていうのは、結局はそれぞれ、個人個人が自分の命をどれだけ貴いと思うかにかかっています。それは個人によっても、また個人の中でその時々によっても変わるものだと思うのです。

そこで正直に言いますと、一年前の僕にとって、自分の命の価値なんていうのは、ゼロに近いものでした。決して貴いものなんかではありませんでした。でも、今は自分にとっての、自分自身の命の価値が急上昇しています。貴重なものだと実感しています。ああ、価値が下がっていたあの時に、たたき売りしたり、捨ててしまったりしなくて良かったかも、なんて思います。色々な人達や物事のおかげで、僕の命の価値が上がってきて、僕はそれをとても嬉しく思っています。

ただし、こうやって幸せを感じているからと言って、僕は決して、やはり命は貴いものだ、なんて言う気にはなれません。またしばらくして、僕の命の価値が下落することだってあるかもしれないと思うからです。命の価値が、今度こそ本当にゼロになってしまうことだってあるかもしれないと思うからです。そう考えると、人の命はずっと等しく貴いものだ、なんていうのは、全然説得力がないものだと感じます。そもそも、人間いつかは死ぬものであって、先にも述べたように、生きている間の自分の命の価値なんていうのは各々が勝手に決めれば良い、と言うより、決めるしかないのです。そして人の価値観が変わるものである限り、命の価値も変動してしまうのは、しょうがないことだと思います。それはどうにも変わることのないシステムなのだと思います。

さて、このことを踏まえた上で、今僕が思う事があります。それは、要はその命の価値を無理に固定しようとするのではなく、命の価値の変動を実感する事に意味があるのではないかということです。僕は今、自分の命の価値が上がっている事を感じています。通貨が上昇したり、下落したりしたら、その時々にやっておくべきことがあるように、僕も自分の命の価値が上がっている今こそ、やっておくべきことがたくさんあると思います。今しかやれないことがたくさんあると思います。これ以上価値が上がってしまったらできないことだってありますし、下がってしまったらできないこともあります。また、安定してしまうだけでできなくなってしまうこともあります。その時々にしかできないことがあるのです。それなら、自分の命の価値の変動を常に意識して、その時々にするべきこと、その時々にしかできないことをすれば良いと思います。

そして僕は、自分の生きている価値が上がってきている今、それを実感できている今、たくさんのことをやっておこうと思います。まあ、把握しきれないぐらいたくさんのことがある訳ですが、その中の一つとしてまずやりたいこと、そしてひょっとしたらもう今しかできないかもしれないことを、ここで簡単に述べておこうと思います。

それは、僕が愛している人達、僕を愛してくれている人達に感謝の気持ちを伝えるという事です。突然ですが、皆さん、本当にありがとうございます。これ程、周りの人達の存在を大切だと思った事はありませんでした。僕が今生きていられるのは、皆さんやその他様々な人々、物事のおかげだと思っています。本当に、伝えきれないぐらい感謝しています。ありがとうございます。

2008/06/22

自分らしい生き方を

今日、突然ふと「僕は僕らしく生きて行こう」と思いました。何だかものすごく安っぽくて気持ち悪い台詞ですが。

実は、昨日書いた恋愛についての考察を含め、何かについて考え込んでいるとつい、自分とはそんなに変なやつなのか、と思ってきてしまいます。それ程世間一般から外れた、気持ち悪くておかしな人間なのかと不安になります。確かに天の邪鬼のようなところは以前からあって、世間一般にある慣習のようなものを意識的に否定しようとしている節はあると思うのですが、出来事に対する感情、言わば意識せずに自然と沸き上がってくるはずのものまで、あまりに世間とかけ離れているような気がするのです。ひょっとして感情というのも意識によって左右される範囲内のもので、考え方がひねくれているからひねくれた感情しか持てないようになっているのかもしれませんが。

それで、昨日は特に、自分の感情があまりにおかしいような気がしてきて、すごく不安になっていたのです。何だか誰にも理解されないような、そんな孤独感を持ってしまったのです。誰にも、というのは自分を含めて誰にも、ということです。おかしい、考え方がおかしい、感じ方がおかしい。ひょっとして、無理してそんな感じ方をしているのか?意識的に嘘をつこうとしているのか?だとしたらせめて自分に対しては正直に行けばいいはずなのに、見栄を張らなくて良いはずなのに、何故そんなにおかしな感覚を持とうとするんだろう?心に質問をしても、誰も答えてくれません。僕という人間は、そんなに変な人間なのかと思ったら、ついつい悲しく陰鬱な気分になってきました。

ただ、そうやって不安になった後、やっぱり人と違うなら違うでしょうがないような気がしてきました。自分が違和感を持つのならば、疑問に思うのであれば、納得できないのであれば、それを続けて行くしかないように思うのです。自分すら理解できなくとも、それならそう生きて行くしかないように思います。そうしないと納得できません。それこそ、自分らしく生きて行く事なのだと、そんな風にふと、僕は思いました。

これは、自分に対する言い聞かせです。

2008/06/21

恋愛についての十三考察

最近、恋愛というものについてものすごく考えました。考え込みました。それで、考えていてものすごく楽しいんだけど、もう難しすぎて頭がこんがらがってくるぐらいまでいってしまった僕の恋愛についての考察を、ここに雑多に記しておきます。一考察どころではないので十三考察としてみましたが、数字に特に意味はないです。強いて言えばバラックの背番号です。

さて以前「天気の良い日は告白をしよう」で語ったように、僕はつい先月ぐらい、ある女性に好きだと告白をした訳です。それで、その人に好きだと伝えたことが重要であって、同じぐらい好き返して欲しいとか、付き合って欲しいなんてのは露程も思わない、という話でした。その後色々とありまして、その女性が僕のことを恋人として捉える事は確実にない、そしてそのまた逆もしかり(僕がその女性を恋人として捉える事は確実にない)という事が再確認されました。詳しくは書きませんが、状況として、またお互いの口からもそれが証明されたのです。

今、その再確認を経た僕の気持ちを述べますと、やはり初めに主張していた通り、恋人同士になるということは望んでいなかったですし、気持ちには何ら変化はありません。そして、以前から言っているような、僕が彼女を好きでいることから溢れ出てくる幸福感は、留まるところを知らないのです。と言うよりもむしろ、以前よりも幸せが増したような気がしないでもありません。(その理由についてはちょっと省きますが。)

さて実は先日お酒を飲みながら友人とこの僕の気持ちについて語り合いまして、そこでは様々な話が登場しました。はっきり言って結論は出ていないのですが、友人がもうこんなに考えさせられて頭が痛くなった飲み会はかつてないんじゃないかと言うぐらい、二人で色々と考え込んだ訳です。そこで出た話はもうここには書ききれないですが、だいたい以下のような内容です。便宜上、その友人はK、僕の好きな女性はウン子と、呼び捨てで呼ぶことにします。

まずKが言うには、僕の話を聞く限り、僕がウン子に恋する気持ちとそれに伴う幸せというのは、Kを含めた一般論からすれば、自分にとって最良の友人、もしくは大親友を見つけたことに対する感動であり、それにずっと酔っている状態なのだということでした。僕がそれをあくまで恋愛だと呼ぶのであればそれはそれで尊重するけれど、世間一般で言う恋愛とは遠く離れたものだと言われました。(まあ、そのことは自分でも十分意識をしていた訳ですが。)

それではKを含め、一般の人が言う恋愛とは何ぞやと聞くと、定義するのは難しくて、恋と言うのは理屈では説明できない、感覚的なもの、もしくは本能的と言ってもいいぐらいのものだということらしいのです。そして例えば、Kが恋する相手についてその人の魅力を説明しろと言われても、それは不可能なことが多いと言うのです。相手に伝える状況ではもちろん努力して説明しようと言葉にするけど、実際その全てに納得するのも難しくて、やっぱり"何となく"好きだ、というのが根底にあるものだということです。

そしてK曰く、僕の場合は、ウン子の魅力を完全に理解しているし、納得もできている点で、Kにとっての恋愛とは異なっているということでした。確かにその部分については事実だと言えると思います。僕は(僕にとっての)ウン子の魅力は完全に頭で把握しています。理屈で、何故自分がウン子を好きなのか分かっています。本当かよ、と言われるかもしれませんが、それについては本当です。

と言うのも、ウン子は、僕にとって「心惹かれる人」なのです。突然何を言っているかよく分からないかもしれませんが、僕の心の中には以前から、「心惹かれる人々」と僕が勝手にそう呼んでいる人達が確かに存在するのです。なんだか人をカテゴリー化するというのも失礼な話かもしれませんが、やはりどうしても、今まで出会った人達の中で、共通項を持っていてそれによってまとめてしまう人達がいるのです。まあ、その共通項と言うのはあくまで僕の視点から見た、僕の感覚におけるその人達の共通項ということですが。

その僕にとっての「心惹かれる人々」について共通して言える事は、まず人間性が魅力的で、素晴らしくて、ものすごく惹かれてしまうということです。またその人達の生き方にどこか共感してしまい、それでいて強く憧れるのです。そして実際これが一番大切なのではないかと思うのですが、「心惹かれる人々」とは、本気でコミュニケーションが取れるのです。話していて、どこかしっくりくるのです。自分の考え方全てに賛同してくれるかどうかは別として、自分の考えを尊重し、理解してくれているような気にさせられて、つい考えていることを本気で語ってしまう人達なのです。そんな人達とは、話していてものすごく充実しているのです。まあ、全て僕の勘違いかもしれませんし、あくまで僕にとってということなので相手にとってはどうかわかりませんが。

今まで出会った「心惹かれる人々」は数えられる程しかいない訳ですが、性別だとか年齢だとか、国籍、話している言語、所属している文化などはいっさい関係なく、本当にばらばらです。国外にいる時に何人か出会うことができた人達を挙げるとすれば、28歳で学生の韓国人女性とか、同い年の仏系カナダ人の女の子とか、ホモセクシャルの30代のイタリア人男性、などなどです。彼らとは常に外国語で話していた訳ですが、そんな僕にとって伝えられることに限度のある言葉を使っていても、自分の最大限の力を振り絞って、思い切って本当に伝えたい事を言い、本気で会話ができたという感覚を持てたのです。これはむしろ、拙い外国語で話す時こそ、まわりくどいことが言えず、自分の思っている事を包み隠さず言うしかないということになり、その感覚を持ちやすいということもひょっとするとあるのかもしれませんが。

そして「心惹かれる人々」は実際数える程しかいないと言っても、実際その判定(?)を広げるともっともっとたくさんの人を思い出してしまいます。例えば、数回しか会っていないけど、あの人とあの時交わした会話がどうにもしっくりきて忘れられない、というような事です。また普段はそう思っていなくとも、「心惹かれる」瞬間を持っている人もいます。友人とのふとした会話で、妙にしっくり来たというような事です。そう言い始めると、なんだ、そんな程度の話か、という気がしないでもないですが、しかしやはり「心惹かれる人々」の核の方に位置している人達はいる訳です。一つ断っておくと、別にこれは、その核にいる人達が周辺にいる人達に比べて大事だという訳でも何でもありません。言い方は悪いですが、例えばしっくり来ない人との会話ももちろん楽しいのです。ただ、「心惹かれる人々」、そして特にその核に位置している人々が特別な存在であることは事実です。

さて、上で僕が「心惹かれる人々」の条件として挙げた、話していてどこかしっくりくるなんていうのは、それこそ理屈ではなく感覚的なもののような気もしないでもないのですが、ただこのような理由から、僕はウン子を大好きだと思っている訳です。生き方に共感できて、尊敬できて、また話していてその考え方がシンクロしているような、どこかそんな気分にさせられてしまうのです。これが僕がウン子に心の底から惹かれている理由です。

ちなみに、この会話していてしっくりくる感覚というものについては、Kも分かるし、経験したことがあるということでした。ただ、それは全て現在友人として呼んでいる人達に対してであり、それを恋愛として捉えた事はない、と言っていました。そして医学に詳しいKは、少しおもしろい話を始めました。

世の中の結婚している男女のDNAを解析すると、統計的に、遺伝子構造が"遠い"、つまりお互いにあまり似ていない構造を持つカップルの方が多いらしく、またそれは生物学的にも理にかなったことだと言うのです。生物は種の保存のために、自分と同種でありながら、自分の持っていない部分を持っているものと交配して、お互いの弱い部分を補い合い、強い部分を取り込み合おうとする傾向があるからということらしいのです。まあその交配によって産まれた子孫が、本当にその目的に沿ったように"強く"なって産まれてくるかは別として、生物はそうやって進化してきたものだという見解が、生物学における有力な説なのだそうです。まあそれが本当かどうかは定かではありませんし、K自身も納得している訳ではないということでしたが。ただつまり、これがいわゆる人間の本能として惹かれ合う、また世間一般に恋愛だとされるものではないかということなのです。それは理屈ではなく、DNAで規定されたものだとか、動物としての本能によって導かれたものなのではないかということなのです。

そう考えると、確かに僕自身にも過去、本能的に惹かれた、というべきかどうかは分かりませんが、この女の子は"何となくちょっと気になる"、だとか、"どうにもかわいい"だとかそう感じたことはあった訳です。最近はその感覚もほとんどないように思いますが、きっとこれからもあると思います。以前の恋人達も言ってみればそんな感覚だった気がします。はっきり言って何故好きだったのかなかなか説明し難いです。好きではあったはずなのですが、時々本当に恋していたのかとすらつい思ってしまいます。

そして僕の経験上、そういう人には例え好きだと伝えようとしたとしてもうまくいかないのです。どうして好きなのか、頭の中ではっきりしていないからです。と言うより、その前に自分で本当に好きなのかどうか判断ができません。考えれば考えるほど、自分が本当にその人に恋しているのか疑問に思うので、納得がいかないのです。考えて説明できないこと、頭で納得のいかない行動を取るというのは非常に難しい事だと僕は思います。

逆にウン子について言えば、僕が「心惹かれる人」である訳ですし、頭で好きだと納得できているので、好きだと伝える事がものすごく楽でした。別に簡単な方に逃げているということではなく、その方が自然のように思うのです。面と向かって言うのは照れるというようなことを除けば、心の底から好きな人にそのままその気持ちを伝える事はちっとも難しいことではありません。更にそこには、自分の正直な気持ちを伝えられたというものすごく大きな感動が伴うのです。僕はこれこそやはり、最高に好きだということなのではないかという気がするのです。自分が一番納得のいく「好き」と言う感情だと思うのです。

ちなみに、今まで出会った「心惹かれる人々」とは、全員いわゆる友人関係というものを築いてきました。物理的に連絡が取れなくなった人を除けば、今でも連絡を取り合う大切な友人達です。この人達には、交流をしていた当時、心の底から好きだと思っても、その気持ちをはっきりと言葉で伝えた事はありませんでした。実際伝える必要がなかったということも多かったです。

ただし、伝えたいと思った事は何度もありました。その内の数人に、自分が恋をしているのだと思って、それを正直に打ち明けようと思いました。でも、実際自分がその気持ちを恋愛だろうと思っていながらも、先にも書いたように、世間一般で言う恋愛と自分の気持ちとの差に気付いて、自身で恋愛だと断定し切れなかったことがありました。特に人に相談をすると、Kが言うように、必ずそれは恋ではないと言われてしまいます。その判断理由としてよく示されるのが、告白をすることによって相手との関係性を変えたいかどうか、ということです。その言葉の定義の問題は置いておくとしても、"付き合いたい"だとか、"恋人同士になりたい"だとか、そういった気持ちはあるかということが大切らしいのです。そしてもしその気持ちがないのならば、下手な事をして関係をこじらせるよりも何も言わない方が良い、と言われます。

その理屈では、確かに関係を変えたくはないと思いました。告白前と告白後でお互いの意識が変わらない事はないはずなので、何かしらの変化はあって然るべきだとは思っていますが、関係だとか枠組みだとかお互いの契約のようなものの変化は一切必要ないのです。告白するのは、ただ自分がその人と出会った幸せ、その人が存在していることへの幸せ、その人が自分にとってものすごく大切な人であるという事実を知っておいてもらいたいとふと思い、告白したくなるという感じなのです。まあ確かに、友人に対してそんなことを言うやつは気持ち悪いと言うのもわかるので、下手な事を言わない方が良いというのはわかりますが。ただ、新しい関係を築くというよりも、どちらかと言うとその現在の関係をより維持させていきたいような、そんな気持ちなのです。

ただウン子の場合で言うと、物理的な距離が遠い事もあり、友人関係というものを築くまでには至っていませんでした。その為、何かしら伝えなければ、そのまま何の関係性もないまま失われてしまうという可能性もあった訳です。それを心配して、仲良くなっておきたい、自分が大切に思っているという事を伝えておきたい、という気持ちは正直あったと思います。そういう意味では、変化を求めていたと言えるかもしれません。その後は、その何らかの関係を保つことで大満足すると思いますが。

さて、これ程大事な人への気持ち、これは恋愛とは呼べないのでしょうか。生き方に共感する、憧れる、本気で会話ができる、心の底から好きだと思う、自分にとって絶対に大切だと思う、出会えたことに感動する、存在してくれていることに感謝する...。僕はやはりそんな人達をこそ、好きでいたい、愛していたいと思うのです。また疑いなく、愛していられると思うのです。そしてそれで幸せなのです。

ああ、もうこのままどれだけ続いていくのでしょうか。考察は決してこれで終わった訳ではありません。その他結婚する際の関係とは何か、理屈で好きと本能で好きの区別はどこにあるか、そもそもその区別をするべきか、などなど、様々なことを考え、語った訳ですが、もう整理がつきません。ない頭を最大限に使って考え込んだので、ある種の楽しさと充実感を感じながらも、同時にものすごい疲労感があります。恋愛とはかくも難しいことなのですか。誰が答えを知っているのですか。次に一緒にお酒を飲みに行く人は、ぜひ僕に、あなたの恋愛観について聞かせてください。教えてください。お願いします。

ただ、何にしろ、やはりこれからも人を"好き"でいる事で幸せでいたいと思います!(おそらく最長記録更新。)

2008/06/18

心の中のDJ

時々思うのです、心の中にDJを飼いたいと。

と言うのも、自分は以前から言っているように音楽に疎いですし、ノーミュージックノーライフでもないのですが、それでもやっぱり音楽の力はすごいと感じる時はある訳です。例えば、どうにも頭の切り替えが出来なくて考え込みながら部屋の中をうろうろ歩き回ってしまうような時、ふとある音楽を聴いてみたらひゅっと簡単に気分が変わってしまうことがあります。音楽に乗せられて、おう、そう言えばこんな気分あったっけ、というような感じです。もしくは、楽しい時でも悲しい時でも何でもいいのですが、もうその時の自分の感情にばっちりとマッチした音楽が流れてきた時にも、わあ、そうそう、今そんな気分だったのよ、なんて思います。まあ、あまり経験はないんですが、やっぱりそういう時はある訳です。

そうすると、自分の心の中に、その時その時にふさわしい、うまく気分転換させてくれたり、自分だけでは捉えきれなかった感情を一緒に表現してくれるような音楽をかけてくれる(もしくはそっと教えてくれる)DJがいてくれたら、どんなにいいだろうと思う訳です。自分が特に音楽に詳しくなくて、聴く幅が狭いために余計にそう思います。

と言うよりも、何故かはわからないのですが、自分はいつも時期によって聴く音楽というのが決まってしまっていて、例えばiTunesで何か曲を探していても、リストの中から見落としてしまう曲がたくさんあるのです。何と言うか、目に入ってこなくて、その時期は結局限られた範囲の曲群の中からしか曲を選べないようになっているような感じなのです。だからそんな時、自分でない誰かに、突然曲をかけてもらえたらすごくいいなあと思います。この曲聴いてみなよ、とその時々に言ってもらえたら、それだけで人生が豊かになりそうです。シャッフル機能は所詮シャッフルな訳で、まあ他力によって偶然ふさわしい曲に出会う可能性はありますが、そうではなくて、優れた選曲能力を持ったDJが欲しいのです。

まあ、ただ、やっぱりそれは自分でやらなくてはいけないことかもしれません。皆さん、だからCDを買いあさったりするんですよね。自分の力で色々な曲を見つけていかなくてはいけないということですか。そりゃそうですね。心の中にDJなんていないですから。

誕生日と恋愛とファンについて

あまり時間は使えないので、考えた事を雑多に並べて記しておきます。

たいてい自分は定められた記念日だとかそういうものを祝う事に違和感を持ってしまう方なのですが、ただ人の誕生日については、最近特に重要だと感じています。それは以前にも書いた、人が誕生する意義という話に通じている訳なんですが、まあその人の存在が周りの誰かしらを幸せにしているのであれば、それだけでその人の誕生の意味があったということであり、それを特に感じる日が誕生日であれば良いのだと思うのです。そして、「誕生日おめでとう」と声をかけて、プレゼントをあげる訳ですが、実は周りの人が言うべきなのは、「おめでとう」ではなく「ありがとう」であるべきなのかもしれないとも思いました。そう、「あなたが誕生したおかげで私は幸せです。だから自分のためにも、この日は重要であり、そしてお祝いをしたいのです。これはささやかな気持ちです。誕生してくださって、ありがとうございます」というのが、誕生日を祝う意味なのだろうと考えているのです。それで例えばプレゼントをあげるという行為についても、自分なんかはつい格好つけているような、何とも言えない照れを感じてしまうのですが、ただそれは自分からその人に対する感謝の記しであると思えば、それは恥ずかしい事でもないかもしれません。あくまで自分が勝手にありがたいと思っている訳ですし、相手からよく思われたいからあげているものではないのですから。まあつまりまとめますと、人の、特に自分にとって重要な人の誕生日というのは、ものすごくありがたい日であるということです。

次に恋愛についてです。まあ色々ありまして、自分が豪語してきた「人は人を想うだけで幸せになれる。他に何も求めなくても満足できる」という主張が一瞬ぐらつきかけたのですが、ちょっとだけ方向を修正して、まだその生き方を続けていきたいと思います。というよりむしろ、現在自分にとってそれを実践するのにふさわしい状況になった訳で、自分がこの場でずっとその気持ちを保つ事ができるのか、見物なのです。実際可能であればそれでいい訳ですし、不可能であってもそれはそれで良い体験でしょう。ただ色々と反省材料も出てきました。何も求めないというのは嘘でした。まあ初めから、相手に迷惑をかけたくないという最低限の欲求はあった訳ですが、そういうことではなく、自分は相手に理解されたいという欲求があったことに気付いたのです。「人は人を想うだけで幸せになれる」というのはあくまで自分の弁であり、想われる側がそれを快く受け止められなければそれは成立しない訳です。例えば、やっぱり好きだと想われたら自分も好き返したいし、付き合ってと言って欲しいという考え方の人もいる訳で、そういう人にとっては自分の主張する恋愛は無価値でしょう。つまりこの自分の愛し方を相手方に理解してもらわなくてはいけない訳で、その理解を求めているという時点で、実はものすごく大きなものを求めていたのだなあと感じた訳です。と言うのも、人間関係において理解してもらうというのは最重要事項の一つだと思うからです。とにかくこの部分については、深く反省をしなくてはいけません。まあとにかく、今後自分がどうなるのかは楽しみです。さあ、どうなるのでしょうか。

さてところで、ファンというのは本当に不思議なものです。今朝からムフフ笑いが止まらないのです。というのも、ユーロでイタリアがフランスに2-0で勝ち、決勝トーナメントへ進んだのがとっても嬉しいのです。自分は大学でフランス語専攻でしたし、フランス人の友人も何人かいて、フランスという国自体に愛着がないこともないのですが、サッカーに関してはどうしてもイタリアが大好きなのです。これは小学生ぐらいからなので、もうきっと変わらないんだなあと思います。イタリアがフランスをぼこぼこにしてくれたことで、気分爽快なのです。なんだか子供っぽくて恥ずかしいなあと思いながらも、イタリアが勝つとガッツポーズなんかしちゃいます。なんだかなあ。不思議です。

2008/06/16

フッチボーウ

ここのところ毎週末に何かとイベントがあって大忙しなんですが、昨日は友人とつくったチームで市のサッカー大会に出場してきました。一回戦の相手が優勝候補だったので、正直絶対負けるだろうと思ってたのですが、前後半をなんとか無失点でしのいでPK戦に持ち込み、結果4-3で勝ってしまいました。めちゃくちゃ嬉しかったっす。久しぶりに興奮しました。試合中から試合後までアドレナリンが出ずっぱりでした。で、しかも、ちょっと前に極度に緊張する状況の例として挙げた大会でのPKキッカーを務めました。4番目のキッカーとしてスポットに向かった訳ですが、何だか今回は思ったより緊張しなかったです。めずらしく自信を持って臨めました。試合中からの興奮が続いていたからか、決めてやる!って気分でした。こんな気分を味わえただけでも、とっても良い体験でした。再来週までまた走り込みを続けて頑張ります。

2008/06/13

ノーミュージックノーライフではないですが

音楽をやっている人が好きです。なんだか皆さん、とても正直そうなのです。僕のためではなくても、彼らのために音楽は存在していて欲しいです。そういう人に会えるおかげで、毎週金曜日は少しテンションがあがります。

2008/06/10

フランス語をやろう!

一昨日、あるフランス語の面接試験を受けてきました。フランス語を話すのなんて約一年ぶりだったので、もう随分忘れてしまっているだろうな、と思っていたのですが、自分が思っていたより「話せて」びっくりしました。語学には完璧がないので、自分が「できる」だなんて決して思うことはできないのですが、以前の自分と比べて「できる」とか、自分が思っていたより「できる」とか、あくまで自分を基準にしたものであれば「できる」と言える訳です。それで今回はまさにそれでした。5年間かけてつくった自分のフランス語体系ってのは、なかなか崩れることはないんだなあ、と思うと何だかそれが嬉しくて、やっぱり語学って楽しいかもしれない、なんて改めて感じました。...ということで、これからまたフランス語を勉強しようと思います。なんだか柄にもなく爽やかですが、頑張ります!

2008/06/02

夏時間賛成

日本でもサマータイムを導入しようなんていう話があって、まあ当然と言いますか否定的な意見が多いようなんですが、僕は正直に言うと、けっこういいのになあと思うんです。確かに面倒くさいでしょうし、どれ程の省エネ・エコ効果があるのか疑問ではありますが、なんだかあの時間を得したような感覚、どうも好きなんですよ。そんなもん結局後で損するじゃねえか、と言われるかもしれませんが、そちらは何故かあまり気にならないようです。そして何より、絶対の概念のようであった時間というものがいとも簡単に崩されてしまうというのがなんだか不思議で良いんです。所詮、社会で流れている時間というのは、"時間"という抽象的概念を一つの方法で解釈して区切っただけなのね、と改めて気付かされるようなそんな感覚です。まあ、そんな事を考えなくとも、皆にとって時間について、そしてその有効活用について考えるための良いきっかけになるんじゃないかという気がします。それに、皆が一斉に時計の針を動かすだなんて、ちょっとした一体感みたいなのがあって良いんじゃないかとも思います。あとそれから、否定的な意見の中に社会に混乱が起こるなんていうものがありますが、実際そんなに混乱するようなことじゃないですよ。仮に一日、二日混乱したとしても別にいいですし。まあ、実際導入されたら自分も文句たれてるかもしれませんが。そして実際導入されないんでしょうが。それならそれで別にいいんですけどね。

2008/05/31

マラドロワ

僕は、とても不器用な人間なんだと思います。こどもと接する時、または世界の貧困問題やら地球の環境問題やらと対面した時、どう振る舞えばいいのか、どうにもわからないのです。自分勝手な愛や偽善で行動をして、それが果たして相手の為になるのかどうか判断しかねるのです。結局何もできずに愛想笑いをするのです。でも、そもそも僕の行動なんて何の為にもならないですし、それによって何も変えられないはずです。そう思えばもっと素直に行動できるかもしれません。自分の行動の自己満足さと、自分自身の無力さを意識さえすれば、不器用でもなくなるかもしれません。

2008/05/27

せめて二、三兎は

二兎を追う者は一兎をも得ず、という諺があります。まあ、非常にもっともらしい話だと思います。もっともらしいとは思うのですが、どうもこれがあまり好きになれません。と言うのも、以前一兎を追って、その一兎をつかみかけるところまで行ったような気がするのですが、深追いをし過ぎた為にいつの間にか迷子になってしまっていたという経験があるのです。他の兎がいないようなところまで来てしまっていたのです。だから今は、せめて二、三兎は同時に追っていきたいと思っています。

2008/05/25

サルの反省

最悪の日曜日を迎えた。昨日の夜は楽しかったはず。でも、少し調子に乗り過ぎた。無茶なお酒の飲み方をして、無茶なはしゃぎ方をして、まったく何をそんなに求めていたのかと思う。そして今日、そのために自分の目標を一つ諦めた。二日酔いだからなんてものじゃない。もともと心が拒んでいたのも事実なんだ。その諦めによって、ある種の解放感すら感じるけど、それじゃいけないだろうと心の中の誰かが言う。この失敗をいつまでも引きずるべきではない。でも、反省は必要だ。自分をいじめるのはもう辞めたつもりだけど、自分を叱ることは時にしなくてはいけないらしい。こんな気分ひさしぶりだけど、最近のたるんでいる自分に喝を入れたい。反省したい。新たな決意をしたい。もう一度目標を立て直したい。

2008/05/23

緊張感と快感

極度の緊張感にさらされた時、下腹部のあたりがギュッと締め付けらるような感じがして、その後それが大きな快感に変わる、という経験をされたことはないでしょうか?アドレナリンがたくさん分泌されているのか、もしくはひょっとして前立腺のあたりが刺激されているのかなと思うのですが、まるで性的快感と同種のもののような感じなのです。そしてその快感の後、ものすごい集中力が溢れ出てきます。

例えば、時間制限のある試験で問題があまりに難しい時、一瞬焦りで頭が真っ白になり、何も考えられなくなります。ただ次の瞬間、この快感に襲われて急に集中力が高まり、それが試験終了まで続くという事がごく稀にですがあります。他の例では、サッカーの大会でPKを蹴る時なんかも、それに近い感覚だと思います。緊張でどちらかと言うと蹴りたくないはずなのに、いざその瞬間になると足を前に運んでいってしまうのです。観衆の前で即興で楽器演奏をしたり、スピーチをしたりするのも、そういった感覚なのかな、と思います。

その原理ははっきりとしていないにしろ、医学的にも認められている感覚だそうです。この緊張感と快感、そしてその後の集中力が自由に引き出せたらいいのになあとたまに思います。


ところでサッカーで思い出しましたが、チャンピオンズ・リーグの決勝はPKでの決着でした。本当に、人生というものは残酷です。どうしてあそこで足を滑らせるのか。なぜあそこがぬかるんでいたのか。考えれば考えただけ悲しくなります。ただ、そこから幸運を手にして勝利した人達を見ていると、嬉しさがこみ上げてきます。天国から地獄とはまさにこのことで、逆の立場に立てば、地獄から天国ということなのでしょう。言うのは簡単ですが、人生とはこういうものなのだと改めて感じました。そして勝者も敗者も、どちらも美しいと思いました。朝からまた感動で泣きました。

2008/05/21

枠組みに囚われる事の幸と不幸

他人が作り上げた概念に囚われる、ということについてよく考えます。世の中では"幸せの形"というものすら既に決められていて、それに沿う事が幸せであると感じるように信じ込まされているように感じる事があるのです。確かに、そういった"幸せになる方法"を示されているがために、自分にとって何が幸せであるかを明確に位置づける事ができ、またそれに従いさえすれば幸福感を得る(そう信じ込む)事ができるという利点もあると思います。ただ逆に、そのある一つの幸せの形を信じるがあまり、それ以外の幸せを見落とす危険性もあると思うのです。

例えば最近周りの人達に伝えているように、「付き合う」なんていう概念なくなってしまえばいいのに!とものすごく思う訳です。と言うのも、偉そうな事を言うようですが、その「付き合う」という概念があるために恋愛によって幸せになる形を限定してしまっているような気がしてならないのです。

おそらく以前誰かが、人を好きになれば"付き合って"、"恋人同士になり"、お互いに同じぐらい好きだと思い合うというのが最高に幸せな形だと示し、多くの人がそれに賛同したのでしょう。確かにこれによって、ある種の幸せは制度化されました。「付き合う」という契約を交わす事によって幸せであると感じる事ができるため、恋をする多くの人が容易に幸せになる方法を確立したと言えるでしょう。

しかし、あまりにその概念に囚われ過ぎると、恋愛で幸せになるのと「付き合う」という概念のみがイコールでつながれてしまい、今度はまるでその契約がなければ幸せでないように感じてしまうことがあると思います。実際は、人を好きになるということだけで心が満足することもあり、何も"付き合わ"なくとも、相手に自分と同等ぐらい好かれなくとも、十分幸せになれるはずなのですが、それに気付かなくなってしまいます。これも以前使ったくだらない例えではありますが、登頂する事ばかりに夢中で、登山中にある美しい花々を見落としてしまっているようなものです。とにかく、恋するということが既に幸せであるということを忘れてしまうのはとても残念なことだと思います。

以上が、概念に囚われるという事の不幸だとしましょう。僕は常にこれを恐れ、時代や場所によって決められたあらゆる枠組みから抜け出してみたいと思っています。いえ、実際は全てのものから中立性を保つというのは不可能だと思いますが、せめて自分自身が何かによって規定されてしまっているということを常に意識しておきたいなと思っている訳です。そのために幸せを失う事もあれば、新たな幸せを見つけることもあるかもしれないと考えているのです。

ただ、自分が嫌っていたある種の枠組みが、幸せをもたらすこともあるという事実を認めなければならないとふと思いました。と言うのも、急にくだらない話になりますが(いえ、初めから十分くだらないですが)、今から約5時間後にチャンピオンズ・リーグの決勝が始まる訳でして、正直に言うと初めは、どちらのチームもそれ程好きな訳じゃないし、今年はそれほどテンションあがらないだろうなあ、なんて思っていたのですが、いざ当日になりますと、もう「チャンピオンズ・リーグ決勝」という言葉、その概念だけで、楽しみでないはずがないという気になってきてしまうのです。伝統、権威といったものが作り上げてきた価値というものはなかなか馬鹿にできません。その用意された枠組みによって、僕の心は興奮気味なのです。きっと良い試合になるに違いない、楽しめるに違いない、という気がしてならないのです。待ちきれません。今日は一年の総決算です。枠組みに囚われて、今日の僕はまた幸せです!

2008/05/18

明日お天気だったよ

前回に引き続きお天気関連タイトルですが、ひさしぶりに言葉のことで気になったことを書こうと思います。

今日、バイト先のパートさんがこう言いました。「あ、そう言えば、明日お天気だったよ。」

この台詞だけを取り上げて見ると、何で明日のことなのに「だった」なんて過去の話のように言うのかしら、とちょっと不思議な感じがします。まあ日本語文法では、現在形と過去形という概念はなくて、動詞のタ形とル形は完了・未完了の違いしか表さないそうなので、当然タ形を未来の話に使ってもいい訳です。ただ、明日お天気であるという事実自体は別に完了している訳でもないですし、とにかく響きがちょっとおもしろいなあと思いました。

それで、まあ容易に想像できるかもしれませんが、上の発話が何を言わんとしていたかというと、「明日あたり雨が降るかもしれないね、なんて昨日皆で話していたけれど、実際今日の天気予報では晴れると言っていたよ」ということなのです。つまり、天気についての話をしたのは完了したことであって、「雨が降ると言っていたけど、実は晴れだった」と解釈するか、もしくはその人が天気予報を見たのも完了したことであって、「予報によると明日晴れだった」と解釈すれば、「明日お天気だったよ」という発話は、聞き手が何ら支障なく理解できるものな訳です。まあ実際そんなことを考えずとも、僕も他の皆さんも前日に天気の話をしていたという共通の了解があったので、全く問題なくその発話を受け取ることができました。

こうやって一見非文法的であったり意味をなさないような発話であっても、文脈やある前提を経れば、文法的でありまた理解可能なものに早変わりする訳です。いわゆるウナギ文「僕はウナギだ」も、からくりを知らずにこの発話だけを取り上げて聞いたら、つい`おかしい`と思ってしまう人もいると思います。まあただそれだけのことなんですが、自分でそういう場面に出くわした時(そういう類の発話を自分自身で聞いて発見した時)はちょっと嬉しくなっちゃうということを言いたかったのです。

それでふと思ったんですが、つい人との会話が面倒くさいなあって思っちゃう時とか、他の人の会話が聞こえてきて(例えば電車の中とかで)うるせえなあって思っちゃう時なんかも、おもしろい発話探しだなんて思えば全然苦じゃないかもしれません。ということで、これからしばらくはアマチュア・プチ言語学者のつもりで暮らしてみます。

さあところで、昨日はアマチュア・フットボーラー、今夜はロマニスタです!ローマ優勝してください!

2008/05/17

天気の良い日は告白をしよう

えー、この「虚無の境地」というのは、誰にも聞いてもらえないであろう自分のタワゴトを虚しさに駆られながら書き綴っていくべき場所であって、気分を高揚させながらプライベートな事柄を披露するためのものではないのです。したがって、今からやろうとしていることは自分にとって半ば反則なんです。ただ、やはり書いておかねばならん、という気がどうしてもするんです!ですから、なるべく簡潔に書きます!

昨日、好きな人に「あなたのことが好きです」と伝えました。と言うよりも、突如言い放った(=思うことを遠慮なしに言ってやった)という感じでした。愛の告白、と言うとなんだか大袈裟なので、恋の告白とでも言っておきますが、とにかくその告白というやつを不意打ちのようにしてしまいました。更に途中からはその子が持っている魅力について、褒めちぎるというか褒め倒すというか、なんだかもう褒め殺してしまったような感じでした。決して意図的だった訳ではないのですが。

さて、恋している本人に向かってここまではっきりと「恋してます!」だなんて言ったのは人生初な訳ですが、ものすごく良い体験でした!最高の気分でした!自分が本当に恋してるとわかったことにまず感動、そしてそれを正直に伝えてしまったことに感動。普段は何が自分の正直な気持ちなのかさっぱりわからない、だなんてウジウジしていますが、今回ばかりは素直な気持ちを表現できたと思うんです。そしてこれが恋の告白というやつなんですね。やばいです、告白。病み付きになりそうです。と言うのは冗談ですが。とにかく、正直であることは素晴らしい!

それで正直ついでにこの告白に至った経緯を明かすと、実は一昨日の午後にふと外を歩いてみたら、それはもう雲一つない晴天で、こんな春の日の天気の良い昼下がりには無性にあの子に好きだって言いたい!と思い立ち、まあ結局一日遅れになりながらも、電話でその気持ちを伝えた訳なんです。そんなのただの気まぐれじゃねえか、とかものすごい勝手だな、ただの自己満足だな、と言われればもう返す言葉がないんですが。

いや、ただあえて言葉を返すとすれば、伝える過程はともかく、気持ち自体は決して気まぐれではなくて、確固としたものがあると思っている訳です。まあ、恋なんて一過性だと人は言うかもしれませんが、とにかく今現在惹かれているこころはきっと事実です。ものすごく憧れていて、ものすごく興味津々な訳です。かつてこんなに人を好きになったことはないんじゃないかと思う訳です。これを恋と言わずして何と言わんや。

そしてもう一つ。この行為が自己満足だということについてはもうまさにそうだと思います。自分は大満足な訳ですが、突然そんなことを言われた相手の気持ちを考えるとそこにはでっかいクエスチョン・マークが現れます。いや、彼女にとってはそもそも僕の行為自体にジャイガンティックなクエスチョン・マークでしょう。

ただ、ここで少し話は変わりますが、姪っ子が生まれた時に書いたように、人間の誕生というのは元来親の身勝手であり、自己満足から発生したものな訳です。両親が勝手に生んでおいて、それを喜んで、その子を愛するってのはもう勝手極まりない訳です。でもそうやって愛することについて自分勝手であることは悪いことでもないのかなあなんて最近思っていて、「君を勝手に生んじまって悪かった。でも、勝手で悪いけど君が生まれてきたおかげでこっちはもう幸せいっぱいなんだよね。もう最高。君、最高。」と親が感じながら子と接することができればいいなあ、なんて考えたりしています。子供だって、自分の存在が周りの人達を幸せにしているんだっていうことを意識すれば、悪い気はしないんじゃないかなあ、とか、例えそれが誕生の瞬間のみだったとしても、誰かしらを幸せにしたのであれば、自分の生に大きな意味があると思えるんじゃないかなあ、とかなんとか考えている訳です。だからとにかく、親は自己満足だろうが何だろうが遠慮せずに、子供を愛するということに思いっきり満足して、思いっきり幸せになってしまえばいいんじゃないか、と先月あたりふと思った訳です。

さてそれで、その話と今回の話を無理矢理つなげるのであれば、人を好きになるっていう行為はまさしく自分勝手であり、僕みたいな人間はややもすればその勝手さが申し訳ないなあなんてつい思ってしまうことがある訳ですが、それだってふと、そんなもん自分勝手なりに思いっきり好きになったりゃいいがや、という気もするのです。まあ、自分だけ勝手に悪いなあという気はどうしても抜けないんですが、とにかくその人を想う気持ちで満足しておきたいなあと思うのです。と言うのも、少なくとも相手にとって、自分が原因で思い悩まれるよりは自分のおかげで幸せいっぱいになってくれた方がいいんじゃないかなあ、とかごちゃごちゃ考えている訳なのです。そしてそれを踏まえて、何にしろ幸せ表明をしておこうという気になったのです。こうして本人にその幸せ表明をして、それで相手が気分を害することがなければ最高であって、そうなったら実際もう僕の恋は成就したようなものです。

まあこのままごちゃごちゃ書いてもまとまりそうにないですし、こんな話は気持ち悪いのでやめます。今日だけ許してください。自分自身にとってもこの幸せ表明を残しておきたいなと思ってしまったのです。そう、勝手な話ですが、またこんなことブログにまで書いてしまって当事者には非常に申し訳ないんですが、僕はすっきりしちゃって、今幸せいっぱいです!最高!

2008/05/14

掘れそうです、いや惚れそうです

最近全然勉強に身が入らなくて気分が沈みまくりだったんですが、ふとした出会いで感動しちゃいました。台湾人の男性なんですが、まず本当に台湾出身?(本気で疑ってます)っていうぐらい絶妙な日本語を操って、次々にディープな日本アニメ・マンガネタを繰り出してくるんです。あの人誰なんでしょう?台湾生まれでアメリカ在住らしいんですが、どうやって日本の言葉やら文化やらを身につけたんでしょう?謎だらけです。そしてそこにしびれる、憧れるぅー、です。本当に。今好きな女の子も相当魅力的で憧れてますが、彼もまた最高です。天才です。惚れちゃいます。いや、掘れちゃいます。

2008/05/11

地元にいるっつうこと

友達が神戸から帰ってきてたこともあって、皆でフットサルした後に飲みに行ってきました。いやはや楽しかったです。いつからお酒飲むことを覚えたんでしょう。カナダでかしらん。とにかく、今回の帰省(鬱病になって実家に帰ってきたこと)は、いつの間にかできてしまっていた地元の人々(友人しかり、家族しかり)とのミゾを埋めるためにも相当意味のあるものだったと思います。やっぱりバイネタは理解してもらえなかったですが。違うんです。下ネタがしたいんじゃないんです。くだらない下ネタはむしろ嫌いなんです。そうじゃなくて、人とは何かを考えるにあたって、セックスとは何かという話をしているんです。いたってマジメな下ネタなんです。まあ、とにかく楽しかったです。明日起きられないかもしれません。おやすみなさい。

2008/05/06

プチパニック

もう時間もないし頭の中もこんがらがっているので、最近日記に書いたことなんかを適当に記しておきます!

ちょっと前にものすごく色々な感情を味わいました。例えば前にも書いた姪っ子の誕生のこと、そして姪っ子を眺めていてものすごく愛らしく思ったこと。これらの嬉しい気持ちから、ちょっとしたニュースでどんよりした気分になったこと。特に姪の誕生のすぐ後だったからかもしれませんが、近親相姦、幼児虐待の事実に対して相当な衝撃を覚えました。自分にも倫理観というものが存在しているんだということも感じました。ただその後しばらくしたらそんなことは忘れてしまって、全く別のことを考えていられる自分にもびっくりしました。

さて、こうやって全然頭の中が整理できない時、いくら寝る前に日記を書いたりだとか、こうやってたまにブログにつらつらと考えを綴っていたって、それらは決して自分の全てではないんだなあと思いました。まあ当然のことではあるんですが、思考というのはもっとこうまとまりきらないし、かなり交錯した考えというのが頭の中には存在していて、そしてその中には現れてはすぐには消えてしまうようなものもあって、どうにも捉えきれないものだと思うのです。この流れは止められません。それを無理に捕まえようとすることに意義があるようなないような、それすらも判断しきれません。

ところで、少し前にチャンピオンズリーグの試合を観ました。なんだか最近はサッカーの試合を丸々一試合集中して観ていられないことが多いんです。特にシーズン終盤になってきて、サッカーを観ることへの疲れだとか、結果がわかってきた寂しさだとか、何とも言えない感情も相まって、サッカーに対する情熱がしぼんでしまっているような感じがします。ただ、この日の試合は相当良かったです。とても盛りだくさんで、サッカーでこんなに感動できたのはひさしぶりでした。最高級の試合を観た後はやっぱり良いです。選手たちは皆キラキラ輝いて見えました。そこには一つ一つの人生があります。世界各国から様々な人生を生きてきた人達が同じ場所にそろって同じ目標に向かうだなんて!

それで話は若干それるんですが、その試合の影響もあって、なんだかバラックがものすげえかっこいい!と思ってきました。こうやって毎シーズン"はまる"選手が必ずいるんですが、そうなるともうその選手の出身地だとか、経歴だとか、移民だったら何系なのかだとか、ひたすら調べちゃう訳なんです。それでバラックは東ドイツ出身だとか、確実な情報ではないけど、ゲルマン民族ではなくてソルブ人という少数民族の血を引いてるだとか、そういった背景の情報を知ると、もう試合を観る楽しみが何倍にも増えます。さてそれから、このバラックの流行とともに、急にドイツに興味が湧いてきました。今までドイツについては相当無関心だったんですが。あー、ドイツ語勉強してみたい!ドイツ行きたい!

それからまた話は変わりますが、自分が未熟であることを意識していて、それを当然のことだと受け止めながらも、決してそこに安住することのない人がかっこいいなとふと思いました。そしてつい高野悦子さんの『二十歳の原点』を読みました。なんて人間らしいんでしょう。その少し恥ずかしいぐらいの未熟さも、戸惑いも、魅力的なんです。時に無気力そうではありながら、やっぱりアツく生きているんだなあというのがにじみでてきています。実際、どの人でも日記を読んだらこんなふうなのかもしれません。

さて、こうやってまとまらない文章をだらだらと書くのは嫌いなことなんですが、あえてやってみました。それは、ちょっと知り合いの真似をしてみたということもあります。なんだかむちゃくちゃ書いてても魅力的な文章になってしまう人はいて、そんな文章を書いてみたいなあと思ったのです。同じようなことしてみたいなあと思ったのです。なかなかうまくいかないですが。

さあ、たくさん書いたところで勉強しよう!努力しよう!目標は立ってる!既に立ってるんだ!

2008/04/25

誕生日おめでとう

私の姪が誕生しました。名は詩子(うたこ)というそうです。

別にその場に立ち会った訳でも何でもないのですが、出産というのはものすごく大変な作業だということを知りました。お母さんはもちろん、周りの人達も赤ちゃんを産む為に一生懸命なんですね。

とにかく、とても喜ばしいことです。そして、自分がこの出来事を喜ばしいと感じられることも非常に嬉しいと思います。と言うのも、一年前の自分だったら、「ああ、また新たな不幸が世の中に産み落とされたのか!」なんて言い兼ねなかったからです。

本当に子供じみた考え方だとは思うのですが、人がどうして生まれてくるかということについて考えると、それは決して自分の意思ではなく、親の「勝手な都合」によるものだという気がしてしまうのです。全ての誕生は親のエゴによるものです。勝手に二人が出会って喜び、欲にかられて子づくりをして喜び、子供を産んで喜ぶ。二人にとってはもう嬉しくてしょうがない訳ですが、子供にとっては何が何やらわかりません。そんなの自己満足じゃないか、という気分です。

ただ最近、ああ、それでいいのかしらとちょっとずつ思ってきたのです。愛する二人が自分たちの子供を産むのはもう最大級の幸せであって、勝手かもしれないけど大満足な訳です。これからの子育ても、苦労はするでしょうが、それだけ喜びもひとしおなんでしょう。両親がいつもそれを感じて生きていければ、彼らにとってそれはもう幸せな生き方です。

そして、親たちは自分の子供という存在が人生の幸せの源だということを、常に感じながら子供に接することができればいいなと思います。別に子供にそのことを無理に意識させる必要はないかもしれませんが、子供も自分の周りの人々が自分のおかげで常に幸せなのだということを感じればきっと嬉しい気分になるでしょう。

よく大人が子供と遊ぶ時は、まず自分自身が楽しむことが大切だなんて言いますが、確かに自分の嬉しさをうまく子供に伝えてやることができたらいいですね。「勝手に君を産んじまって悪かった。でも、君のおかげでもうこっちは最高に幸せなんだよ。いやはや、最高。君、最高。」なんて思えればとてもいいです。

まあとにかく、とても単純なことを言っているようですが、両親が幸せであることによって子供もちょっとは幸せになれるような気がするんです。ですから両親は、たとえ身勝手で自己満足であろうと、遠慮せずに思いっきり満足して、思いっきり幸せになってやればいいんじゃないでしょうか。

さて、そうやって育った子供ですが、「僕は、私は、どうして生まれてきたの?」なんてくだらないことを考える時期がきっとくると思います。(まあそんなこと考えるのは中学生ぐらいのもので、24歳のニートは普通そんなこと考えないかもしれませんが。)そんな時、自分は自分の意志で生まれてきたんじゃなく、親のエゴによって生まれてきたんだ、そんな無価値でくだらない存在なんだ、なんて思ってしまうやつがいるかもしれません。

ただ、別にその事実についてはどんなふうにだって解釈できると思うのです。親の喜びのために生まれてきたのであれば、じゃあやっぱりその当初の誕生の目的に沿って、両親を満足させていきたい、それが自分の生きる意味だ、喜びだ、と思えばそうすればいいです。私が誕生してきたことで、両親やその他の人達にものすごい喜びを与えたんだわ、それだけで私が生まれた意味があるわ、なんて感動してもいいです。もしくは、誕生してきた時点で既にものすごい喜びを与えてやったわけで、自分の任務はこれで完了だ、後は自由にやらせてもらうぜ、なんていうふうに生きて行くのもいいと思います。

またもや最後がまとまらなくて訳がわからなくなってきましたが、とにかく、生まれてくるってのは、たいした意味がないようであって、やっぱりそれなりの意味があるなあと思ったのです。そうすると、今日この日、私の姪っ子の本当の意味での誕生日は、非常におめでたいなと感じます。そして勝手ですが、当事者の詩子ちゃん自身にもおめでとう、感動をありがとうと伝えておきます。

2008/04/22

輝く人々

いつもニコニコと笑顔を絶やさないで、まるで太陽のような人がいます。そうかと思えば、月のようにクールで、無駄に笑顔なんて見せないような人もいます。どちらの人も、とても素敵だと思います。皆さん、とても魅力的だと思います。

2008/04/18

アドマイアラー

最近頓に思うのですが、世の中には尊敬できる人というのがたくさんいます。そこら中に溢れているような気がします。ふと内面を覗いてみると、あらゆる人が、私が憧れてしまうようなものを何かしら持ち合わせているのです。皆さん非常に人間らしく生きているのです。私にとっての恋は憧れであると言いましたが、この調子ではつい誰にでも恋をしてしまいそうな、そんな気がします。

2008/04/17

恋するインポテンツ

最近やけに爽やかな内容ばかりだったので、ここらでまた「虚無の境地」の理念(無意味で無価値な戯れ言ではあるが、人間について深く考えようとした結果出てきた自分にとってはある種愛らしい戯言を記していくこと)に沿った話をしたいと思います。かなり下品と言えば下品な話題なのですが、このブログを覗いてくれている知人はほとんどそんなの気にしない人ばかりだと思いますし、たまに検索サイトからやってきてくれる人達は、そういう類の検索ワードを基にやってくる訳なので、これまた気にしないはずでしょう。

さて、実を言うと私は、慢性的EDなのです。いえ、別に医者からそう診断された訳ではないのですが、時々本気でそうなんじゃないかと思うことがあるのです。そして近頃その周期に入っているようなので、性的興奮というものを覚えることがありません。自分でかなり意識的に処理をしようと思わない限りその機会がなく、下手をすればひと月以上放置した挙げ句ウェット・ドリームとなってしまうのです。

果たしてこの原因は何でしょうか。ある調査では鬱病患者の約半数がEDを併発すると言われているそうですが、私の場合は鬱病になる前からその兆候があったような気がするので、病気が原因なのかどうかは定かではありません。おそらく加齢、外傷、糖尿病や高血圧症等の症状によるものではなく、心因性であることは間違いないと思っているのですが、はっきりしたことはわかりません。

正直に言うと、中学から高校一年ぐらいまではセックスのことばかり考えていた気がします。頭の中はとろけそうなぐらいにエロエロでした。もちろん本能的にということもありますし、理性的にも非常に興味があったのです。この欲望、この性行為によって自分がどこに行き着くのか、ということを常に考えていました。そしてそれが日々の主な悩みの一つでもありました。

ただいつからか、その問いから解放されたように感じるようになりました。と言うよりも、すっかり性への興味が失われてしまって、頭の中から消えてしまっているのです。そしてふと何かのきっかけでそのことを思い出し、びっくりするのです。以前の自分のあの大きな関心はどこへ行ってしまったのかと不思議に思うのです。

さてそこで少し考えてみると、不確かではありますが、二つ程その原因が挙げられるように思います。

まず一つ目に、私は女性に恋をしている時にはインポテンツになる気がします。本当に恋をしている時(まあこんな感覚を知ったのは割と最近になってからですが)、自然と性への関心が薄れていきます。別にプラトニック・ラブが崇高なものだと言うつもりは全くないのですが、本当に人を好きになるとその想いによって性欲がかき消されてしまうように思うのです。じゃあ、いわゆる'付き合って'いた恋人は本当に好きではなかったのかと言われると答えに窮するのですが、でも年月を経て「好き方」が変わるような気もしていて、肉体関係を持った恋人にも同じようなプラトニック・ラブを抱えていたことはあると思うのです。

私にとっての好きな人というのはしばしば憧れの対象であって、その女性に対して、またその女性の存在を前にして性欲を持つことは、その人を冒涜しているように感じてしまうのかもしれません。憧れの人をいつまでも、ある種神聖なものとしておきたいのかもしれません。別にその女性がすごく強い性欲を持っているだとか、もしくはその女性が誰かしらと性行為をしたという事実を知ったしても、何も感じないでしょうし、イメージが崩れるなんてこともないと思うのですが、私自身がそういう類の気持ちを持つことがどうしてもできないのです。

それから、最近気付いたことには、そうやって恋する人に対して性欲を持つのに抵抗がある反面、その人以外の人間に対して性欲を持つなど絶対にしたくないという気持ちもあるのです。私は普段、誰かが社会一般で言う浮気というものをしていたとしても全く責める気持ちにはならないですし、そういうことに関する問題意識が低い方だと思っているのですが、自分自身は心の中で恋する人だけを想うことでその人に対して忠実でありたいと思っているのかもしれません。随分勝手な話ですし、くだらないことではあるのですが。まあとにかく、こういう気持ちからなのか、あらゆる性欲が押さえられているように思います。

次に、EDの原因の二つ目に触れようと思います。これは実は一つ目のものと大した違いはありません。それは同じく「恋」なのですが、先程はたまたま私にとっての大きな気持ちの対象として女性を挙げただけで、その対象は女性だけではないと思うのです。まあ当然男性も対象であると言える訳ですが、それよりももっと広く、様々な物事が恋の対象になり得ます。

それは勉強だとか映画だとか音楽だとかスポーツだとか何でもいいのですが、突然恋をしたように何かに夢中になるということがあると思います。もちろん人生常にそういった時ばかりではないのですが(と言うよりそんな時はごく稀なのかもしれませんが)、毎日好奇心のような不思議なエネルギーで溢れているような時期があると思うのです。何か夢中になっていることだけで日々忙しくてしょうがないような時です。そんな時、はっきり言って性欲なんて無価値です。頭の中の一ミリも入り込んでくる余地がありません。

まあ、その夢中になる対象がたまたまセックスであれば、性欲が際限なく溢れ出てくるなんてこともあるのかもしれませんし、以前の自分はきっとそれに近い状態にあったのでしょう。ただ、現在では性行為に対してそういった強い魅力を感じることはほとんどありません。ひょっとすると今後またそういった時期が来るのかもしれませんし、そうだとすればぜひ体験してみたいとは思いますが、他の何かに夢中になっている限り、それはないでしょう。

以上が、私が考え得るEDの原因です。ただこのように理屈っぽく語ってみても、実際にこういった内容を考えた上で性欲を意識的に押さえている訳ではなくて、本当に自然に性欲をなくしているような状態なのです。したがって、果たして上に書いたようなことが本当にその原因なのかどうか、定かではありません。いったいこれは何なのでしょうか。これも心因性勃起不全と呼ぶのでしょうか。

ただ一つ言えることは、普段そのことについて忘れてしまっているため、自分の中でEDであるという意識はそれ程なく、特に悩んでもいないということです。ヘミングウェイの『日はまた昇る』は何度か読みましたが、ジェイクにある種の共感を覚えながらも、あのように戦傷を引きずる暗いインポというより、自分は今を生きる明るいインポなんじゃないかとふと思うのです。

だんだんまとまらなくなってきましたが、無理にまとめます。とにかく、今ものすごく好きな人がいるんです。また勉強も、音楽も、旅も、その他もろもろのこともやっぱり好きなんです(おそらく)。そして、それらの目標に向かっている自分さえも好きになれそうな気がするんです(きっと)。つまり、私は恋するインポなのです!

2008/04/14

初めてピアノに触れるような

子供の頃にピアノを習っていた先生に突然電話して、また弾きたいと思っていると伝えた。するとさっそく今週末からレッスンをしてくれることになった。

もう10年以上振りだったはずなんだけど、僕のことをよく覚えていてくれた。色々懐かしい話をして、僕が連絡したことをとても喜んでくれた。それでこっちもとても嬉しい気持ちになった。当然だけど先生は子供の頃の僕しか知らない訳で、自然とその僕のイメージを持って会話をしているんだけど、逆に僕自身はその頃の自分がどうだったかなんてあまり記憶になく、それがちょっと新鮮に思えた。また、今回話をしながら大人になった今の自分を見せているというのもなんだか不思議に感じた。

あとその会話の中で「よくベートーヴェンの本とか読んでたよね」と言われた。ああ、確かにピアノの練習は全然しないくせに、世界の音楽家の生涯を描いた漫画やら本やらを毎週借りて読んでたなあ。あの頃から偉人伝読んだり、人の人生について知ったりするのが好きだったのか。まあ、読めれば何でも良かったような気もするが。

とにかく、僕はまたピアノを始める。『バンドをやってる友達』にある「初めてギターに触れるような」、「もう一度何かやれるような不思議な気分」ってのはまだ続いている。ピアノに触れよう。ピアノを弾こう。ピアノを感じよう。

2008/04/13

あれから一年

今日はなんだか良い日だった。別に特別何があったという訳でもないんだけど。春の香りの中、色々なことをやろうとしている自分に満足がいったのかも。ところで、旅行に行っていてすっかり忘れていたけど、あの鬱病、パニック障害、失声症などの発症やら一週間での退職やらからもう一年が経ったことになる。一年。あの時は自分がまたこんな日々を送れるようになるだなんて想像すらできなかったなあ。本当に、こんな爽やかな日を迎えられるだなんて。いやいや、まだまだゴールじゃないけどね。色々掲げた目標があるんだから。それが全部終わった時に、もう一度こうやって過去を振り返ってみよう。いつかそんな日がきっと来るはず。

2008/04/10

自由の国へ

一週間程行ってきた。

アメリカと言ってもハワイだけど。こってこてのリゾート地で、行くのが若干恥ずかしいとまで思ってたんだけど、なんだかんだ楽しんでしまった。

色々やった中で、ハワイ旅行のハイライトを挙げるとすれば、

パラセイリング。モーターボートにつながれて、海の上をパラシュートで飛ぶやつ。上空200メートルぐらいから眺めるハワイの景色はやっぱり最高だったね。

ポイ。伝統的なハワイヤン料理の一つで、タロイモをすってペースト状にしたもの。ハワイ原住民の主食らしいんだけど、すっぱい飲むヨーグルトみたいな感じで、けっこう強烈な味。たいていのものは好奇心とともにおいしく頂くんだけど、これはくどくて完食するのが大変だった。でも、かなり印象的でもう一回食べたい。

ウクレレ。いくつかお店を回って体験レッスンを受けてみたら、どうしても欲しくなって買っちゃった。しかも、色々試し弾きしてるうちに、やっぱりいい音がするやつがいいなあ、なんてどんどん値の高いやつに手が伸びて、結局カード決済。今月と来月は死ぬ気で働かなくちゃ。そしていっぱい練習しよ。

と、他にも色々と楽しめて盛りだくさんな旅だった。

ただ、こんなふうに楽しんでおいてなんだけど、二度は行かない気がするなあ、ハワイ。やっぱりハワイはハワイで、それ以下でもなければ、それ以上でもなかった。とてもいいところなんだけど、あんな明るいリゾート地は僕には合ってない気がする。いるのがなんか照れる。それに、雰囲気が平和過ぎる。毎日ゆるゆるの生活で、あんなところに長居してたらボケちまいそうだ。そもそもあんなのアメリカじゃない。入国審査官が笑顔とともに日本語で話してきてくれるんだから。前に本土に行った時は、ずっとキレてるおばちゃんといかついにいちゃんしかいなかったぞ。やっぱりアメリカのイメージはあれだよね。いや、ハワイの人達の平和さは大好きだけどさ。

まあ、こんなにリラックスした旅はおそらく初めてだったので、そういう意味ではとても良かった。明日からまた忙しい日々が始まるので、これをエネルギーにして頑張っていこう。うん、働こう。勉強しよう。生きていこう。

2008/03/31

すっきり!!

前回、近所の台湾料理屋の店員が実は中国人だと知ってショックを受けたっていう話を書いた訳なんだけど、、、今日またそこに行ってみたらなんと!!店の看板やらのれんやらが全て「台湾料理」から「中国料理」に変わっていた!

うーん、、、何故?前の料理人が台湾の人だったけど、今回中国の人に変わったということかしら?それとも僕という常連客に店員が中国人だということがばれてしまったため、台湾の看板を掲げることに抵抗を感じ始めたのかしら?いや、それはないか。

まあとにかく、これからは台湾ではなく中国(大陸系の)料理屋としてやっていくみたい。最初は、やっぱり台湾料理屋って宣伝した方が客が入るからかなあ、とかなんとか考えてたけど、決してそんなつもりではなかったみたい。疑ってごめん!そして正直なところがさらに気に入った!

いやー、ものすごくすっきりした。

2008/03/27

思い込み

ちょっとショッキングなことがあった。

普段あまり外食しないんだけど、家の近くの台湾料理屋だけはお気に入りでよく行く。うまいし安いし速いし。厨房では中国語が飛び交っていて、その雰囲気も相まって「本場の味」という感じがする。

ただ、最近そこの料理の味が落ちた。料理人が変わったらしく、明らかに前よりおいしくない。とても残念。それが一つ目のショッキングなこと。

もう一つのショッキングなこと。この前そのお店に行った時に、変な時間帯だったこともあって他に客がいなかった。そこでふとしたきっかけでウェイトレスのお姉ちゃんと少し話をした。(方言・訛りフェチの僕としては彼女の中国語訛りの日本語がちょっとお気に入り。)さてそれで、これまたふとした流れで出身地の話になり、「台北の出身ですか?」と聞いた。すると彼女が「いえ、私はハルビンの出身です」と言う。

...ハルビン。ああ、東北地方の、、、うん?ハルビンって中国じゃないか!あなたは台湾の出身じゃあないのか?と思ったのは僕。

店にはでかでかと台湾料理の看板があり、てっきり店員は皆台湾人だと思っていた。いや、それは僕のただの思い込みだってことはわかってる。わかってはいるんだが、なんかものすごいショッキングだった。別に騙されたともなんとも思わないけど、意表を突かれたという感じだ。

ひょっとして厨房の人達も中国人なのかしら。だとしたらなんで台湾料理って看板を出してるのかわからないけど。うーん、本当に予想外だったなあ。

2008/03/26

トラトラトラ!

恋は一途。
遂にやった。iMac Summer 2001にTigerをインストールしてやった。Leopardが発売されてるこのご時世になんて時代遅れな話だと思われるかもしれないが、それでも苦労した末のことなのでうれしくてたまらない。実はもう一つの新型iMacにはLeopardを既に入れたんだが、ずっと10.3で成長が止まっていた古いiMacもこの機会にアップグレードしてやろうと考え、Tigerをインストールすることに決めた。だがしかし、iMac Summer 2001モデルは「虎」のシステム条件自体は満たしているのに、DVDドライブが搭載されていないために、フルインストールDVDを使ってもシステムインストールができない。そしてTigerはDVD版しか発売されていない。つまりAppleの嫌がらせだ。でも、DVDドライブ搭載の他のマックをターゲットモードで接続し、外付けDVDドライバとして利用すれば、古い型のマックにTigerのインストールができるらしいので、一ヶ月ぐらい前に一度やってみた。ネットなどで調べてやってみたが、なかなかうまくいかず、その時は諦めた。しかし今回もう一度と思い、色々ごちゃごちゃ試してみたら、遂にインストールが始まった。そして待つこと約2時間。さわやかな音楽とともに「ようこそ」の文字が現れた!いやー、いいねえ、いいねえ。動作速度は若干遅くなるかもしれないけど、やっぱりこっちの方が使えるアプリケーションも増えてよいもんね。やっと虎を飼いならしたぜ。やっほい。

2008/03/22

頼りない生牡蠣のような感受性

茨木のり子っていう人の詩がものすごく良い。もう体がビリビリ震えて、ボロボロ涙が出てきちゃう。きっと以前だったら全然好きになれなそうな詩なんだけど、今はとっても良いと思う。特に「頼りない生牡蠣のような感受性」っていう言葉が大好き。この人は「感じる」っていうことをとにかく大切にしてきた人なんだなあ、と思う。そして自分もやっと「感じられる」ようになったこの時を大切にしたいなあ、と思う。いや、彼女曰く「自分の感受性は自分で守るもの」なんだよな。これからもずっと「感じて」いたい!「感じて」いこう!

2008/03/21

足底筋膜炎

どうやらソクテイキンマクエンとかいうのにかかってしまったらしい。どんな症状かと言うと、足の裏の筋肉が常に張っている感じがして、ズキズキ痛む。ひどい時は歩きづらいくらい激痛が走る。

ランニング障害の一つで、マラソンランナーでもなる人がけっこういるらしい。特に固いコンクリートの上を走っている人は、その衝撃で足の裏の筋肉が炎症を起こすそうだ。うーん、まさに自分に当てはまる。半年間ぐらいずっと走り続けてきたからなあ。ここに来てその負担が足へとやってきたか。

直すためにはまず幹部を定期的に冷やして炎症を止め、安静にすること。そして予防策としては、足のストレッチをよくすること。...だそうだ。体は大切にせねば。

走りたいぃ、走りたいよぉ。

2008/03/19

ニュータイプ覚醒幸福論

半ニートのくせしてここのところやけに忙しい日々が続いていた。それで数日前にやっと色々なことが一段落ついたので、今日はひさしぶりにブログを更新してみる。

一ヶ月ぐらい前、あらゆることに感動して涙が止まらないなんていう時があったが、あれ以来(いや、その少し前からかもしれない)不思議な体験が続いている。一つ一つの出来事はただの偶然と言えなくもないようなことなんだが、それが何度も起きるので、もはやコウインシデンスなどとは思えないようになってきた。

ある日のある時、しばらく会っていなかった友人のことをふと思い出して、「元気にしているかな。ちょっと連絡してみようかな」なんて考えていた。するとそう考えた数分後、まさにその友人から突然「元気?最近どう?」と電話がかかってきた!その偶然がなんだかうれしくて「僕も今、君のことを考えてたんだ!」なんてつい恋人同士かのような会話をしてしまった。

そしてその数週間後のこと。電車に乗っていてある駅を通った時、「あ、ここはあの知り合いの仕事場があるところだな。元気にやっているだろうか」とふと思った。そして、「まだ帰宅時間には早いし、まさかいないよな」なんて考えながら周りを見ると、まさにその人が電車に乗ってくるではないか!びっくりしてすぐに話しかけ、同じ時間のしかも同じ車両に乗り合わせたという偶然にちょっと盛り上がった。

そしてさらにまた別のある日。バイトが休みだったのでちょっくらダウンタウンまで行こう、と最寄りの駅に向かった。すると駅で切符を買う時に、財布を忘れたことに気がついた。しょうがないから家に引き返して財布を取り、再び駅へ。ただ、駅に着いた時、今度は携帯電話を忘れたことに気付く。普段だったら携帯なんて置いていってしまうところだが、なんだかその日は妙に誰かから連絡がくるような気がして再び家に戻った。「あまり忘れ物はしない方なのに、今日はなんだかおかしいなあ」なんて思いながら、部屋に置きっぱなしだった携帯を手に取ったまさにその瞬間、電話が鳴った!それはバイト先からで、「あれ、今日仕事入ってるはずなんだけど、来てないよね?どうしたの?」と言われた。そう、休みを一日勘違いしていたのだ。そしてそのまますぐにバイトに行き、なんとか数十分の遅刻で済ますことができた。まずバイトをすっぽかさなくて良かったと安心したわけだが、それとともに自分が財布と携帯を忘れ、それが結果的に幸運となったことにびっくりした。

...とまあ、こんなことばかりが続くんだが、これがただの偶然というだけではなくて、どの場合も自分自身がその出来事を予想しているというのが不思議なのだ。いや、予想とまではいかないかもしれないが、何か未来に起こることを「感じて」いるような気がするのだ。少し前からやたらと感受性が豊かになったような気がしていたんだが、感じることの幅まで広がっている。まさかニュータイプにでも覚醒してしまったんだろうか。またはシックススセンスに、いやいや、聖闘士達の言うセブンセンシズに目覚めてしまったのだろうか?

自らの運命を知り、未来の出来事を予測し、それを覚悟することこそ幸福だとプッチ神父は説いたが、僕はこの能力によってまさに幸福へと近づきつつあるのかもしれない!

2008/03/06

neとpasで挟むってこと

僕は大学生の時、フランス語を専攻していた。大学受験の時点でなぜ仏文学専攻を選んだのかと訊かれたら色々と理由が挙げられるんだけど、実際他に国文科やら中国語学科やらにも惹かれていたので、いくつかある選択肢の中でたまたまそれを選んだと言えなくもない。ただ、その半ば偶然選んだフランス語に、在学中はけっこう夢中になっていた。フランス語を勉強するのがおもしろくておもしろくて、留学も含めた5年間ほぼずっとお付き合いしてしまった。

普段飽きっぽい僕がここまでフランス語に一生懸命になったのには、一つのきっかけがある。それは、一年生の初級文法の授業でフランス語の否定文の作り方を習った時のこと。教授が「否定文を作るには、動詞をneとpasで挟みましょう」と言った。当時の僕にとってはそのフランス語の基本とも言える文法規則がとても不思議に思えた。否定文をつくるために二つの単語を使うの?しかもその二つで動詞を挟むってどういうこと?なんでそんなことするの?と思った。

そしてもう一つ不思議だったのは、「ちなみに基本形はこのneとpasで挟むものですが、口語ではneが省略されることが多いです」という説明だった。二つの単語を使うべきなのに、そのうち一つは任意だとはどういうこと?pasだけで否定の意味なの?じゃあ、neの持つ意味は何?と疑問がわいてきた。

フランス語を始めた当時、僕にはpasよりもむしろneの方が否定の語というイメージが強かった。おそらく音が近い英語のnotやnoからの類推だったのだろうと思う。それでついつい*"Je ne vais en France."なんてpasを抜いた文を書いてしまうこともあった。ただ、実際英語のnotだけではなくて、他のヨーロッパの言語でフランス語と同じくラテン語を起源に持つイタリア語やスペイン語、ポルトガル語を調べてみても、たいてい"n"で始まる単語一語を使って否定文をつくることになっている。それぞれ"non"、"no"、"nao"という具合だ。じゃあ、何故フランス語だけこの否定語らしいneではなくて、pasという単語を否定語として使っているんだろう?考え始めたらどんどん不思議に思えてきた。

そこで色々フランス語の成り立ちを勉強してみたら、やっぱり他のロマンス諸語と同じように、フランス語でも本来ne(元はnon)が否定語としての役割を担っていたらしい。ただ、neという一音節の語が会話の中で聞き取りにくいこともあってか、古フランス語の時代に否定を強調するため違う語を合わせて使うようになった。例えば歩数を意味するpasを使って"Je ne marche pas."「一歩も歩かない」とか、しずくを意味するgoutteで"Je ne bois goutte."「一滴も飲まない」、点を表すpointで"Il n'y a point."「一点もない」などなど。それでいつの間にか歩数のpasが他の動詞にも適用されるようになって一般化して、現代のフランス語のようにne...pasという表現ができあがったらしい。だからpasという語は、名詞として使われた場合は今でも「歩」の意味を保っているけど、副詞として使われた時には、否定語としての役割を担うことになっている。ちなみに、goutteを含めた他の否定表現は全く使われなくなってしまったけど、ne...pointという表現は今でも文語で使われることがある。

それで、僕はこのフランス語の否定語の成り立ちを知った時に、へえぇー、なんて興味深いんだろう、と思った。だってもともとはneの方が否定で、pasは強調のために補足的に使っていただけなのに、だんだん後者に否定の意味が移って、今ではneはあってもなくてもいい補足の語になってしまっただなんて、まるっきり語の地位の逆転だなあ、と。そしてそれが時間を経て皆の了解を得ながら変化していったというのも、人間の言語の持つ不思議さとおもしろさだなあ、と思った。

まあ、実際言語の意味の変化なんてのは珍しいことではなくて、日本語の「ありがとう」、「黄昏」、「貴様」なんていう簡単な例でも挙げだしたらきりがないと思うんだけど、今回のneとpasの件で更に僕が感動したのは、自分自身でその語の意味が変化していく過程を実感したということ。というのも、先に言ったように、僕はフランス語を勉強し始めた時には、ついついneという語の方だけに強い否定のイメージを持っていた。でも、しばらく勉強していくうちに、だんだんとne...pasという表現に慣れてくる。いつも二つで一セットという感じだ。そして仕舞いには、会話では平気でneを省略してpasだけを使うようになっていた。pasがあればもう十分に否定文だという感覚を持つようになっていた。つまり僕の脳の中でも、短期間でしっかりと言語の意味の推移が起こっていたということなのだ。(まあ、前述のようなフランス語の否定後の成立過程と同じではないけど。)そしてその過程が自分の中で起こったというのがある種の感動だったのである。

僕が感じたのは、外国語を勉強し始めた時、初めはただの意味のない音の連続にしか聞こえないのに、一つ一つの意味を知って、それを何度も聞いたり、自分で言ったりを繰り返しているうちに、人はだんだんと自分の中に言語体系をつくりあげていくものなんだなあ、ということ。もちろんそれはその言語の母語話者が持つ体系とは異なったものだし、簡単にブレが生じてしまうもので、学習者の中間言語(インターランゲージ)だなんて呼ばれてるけど、それでもしっかりと頭の中で物事を体系化させようとする人間の脳ってのはものすごいなあと感心してしまった。そしてそれが顕著に表れる言語ってのはなんて興味深いものなんだ、と思った。

...とまあ、実はこの「neとpasで挟むってこと」を知ったというのが、僕の外国語学習に対する興味を引き出しただけではなく、語学を超えて言語学という分野への興味にもつながっていった重大な事件だったのだ。そう思うと、あの時の感動がなければ、大学生活でここまで勉強しなかったんだろうなあ。フランス語の否定表現が「neとpasで挟む」だったことに感謝するべきかもしれない。

さてそれで、最近またあの時の感動を思い出して、色々勉強をしたいな、なんて思ってきた。まずはほとんど忘れてしまったフランス語を含めて、外国語を勉強したい。だんだんとpasが否定語の認識になっていったように、外国語は繰り返し勉強していれば、それだけ新しい言語規則を自分の中につくりあげていけるんだと思う。そして自分の中に複数の複雑な言語体系がつくりあげられていっているという過程を感じるのが、僕にとってはなんだか快感なのだ。まあ、それを実行するのは簡単ではないんだけど、ちょっとずつちょっとずつやっていきたいな、と思っている。

それから、その自分の中の中間言語を母語話者の言語体系に近づけていくという過程を、言語学的に分析してみたいな、と思っている。人間の第二言語習得がどういうものなのかを研究してみたいのだ。実際僕がそれを勉強して、その知識を将来言語教育に生かすつもりなのかと言われれば、別にそこまではっきりとしたビジョンがあるわけでもない。教師という職業に対してものすごく熱い思いがあるわけではないし、やってみたらそんなにおもしろいものでもないかもしれない。でも、今は学びたいというこの意欲を大事にしてやりたい。勉強したいっていうこの気持ちを保っていこうと思う。そして自分自身の好奇心をもとに少しだけ進んでいってみようと思う。

さあ、勉強を始めよう。「neとpasで挟むってこと」を知った時の感動を胸に。

2008/02/22

ナミダ、ナミダ

何これ?涙が出てくる。詩を読んで、音楽を聴いて、涙が出る。感動する。自分がこんな状況になっていることにまた感動する。嬉しいし、不思議だし、わけがわからない。「こころ」を取り戻したからか?わたしもやっと「感受性」を手に入れたのか?ただ躁状態になってるだけか?とにかく、ずっとずっと心が動く。感動の連続。何、これ?何の涙?全然悲しくない。生きてるのにカンドウする。これまで生きてこれたことにカンドウする。自分を取り戻したことにカンドウする。嬉しさに、悲しさに、全ての感情にカンドウする。こんなふうに声を出して、感動して、涙するなんて!こんなに何かを感じるなんて!生きたい!生きていたい!生きていきたい!

2008/02/21

おかえりなさい!

僕の「こころ」が、やっと戻ってきた!今、色々なことを感じる!色々なことをやりたいっていう意欲がある!素晴らしい!

本を読んで、音楽を聴いて、勉強をして、映画を観て、サッカーを観て、歌を歌って、楽器を弾いて、スポーツをして、または新しいことをやって夢中になる瞬間がある!いや、どれだけ本当に夢中になっているのかわからないけど、少なくともそれをやりたいっていう気持ちに満足がいく!

病気になって以来、ずっと迷子になってたこのこころ。いや、その前から5年間ぐらい、一つのことに集中するために押さえつけて、いつの間にかどこかにいってしまってたこのこころ。ある種ナンパで移り気で欲張りなやつだけど、僕はこいつを嫌いじゃないと思う。もう一度何かをやれるような、そんな気分にさせてくれる。もっと他のけるくしょーずあこてを探す意欲をわかせてくれる。

ずっとこんな気持ちが続く訳ないっていうことはわかってる。またなくしちゃうかもしれない。でも、やっと戻ってきたこころを今は大事にしてやりたい。今はこの気持ちを充分に味わっていたい。

そしてこころに「おかえり」って言ってやりたい!

2008/02/17

一人称の幅を広げる

ブログを開設した時に、人はコミュニケーションを取る相手によって、ある程度自分自身を使い分けていて、それを保つのが時に大変になる、というようなことを書いたが、今日は主に言葉による自分の使い分けの話。

少し前に、小・中学校の時からの友達(男の子)と高校の時の友達(女の子)と僕の三人で一緒に遊ぶ機会があった。まあ、半分僕が彼らを引き合わせたみたいなものだったんだけど。それで、ちょっと散歩した後にふらりと飲み屋に入って飲んだ。その席では色々楽しく会話してたと思う。

そしてもう時間も遅くなった頃、まず女の子を家まで送り、その後その男友達と二人で帰途についたが、突然彼が僕に言った。「お前さ、あの子と話してる時、話し方違うな。ていうか『僕』って言うなよ、気持ちワリぃ」と。

まあ、彼も酔っていて、別に悪い意味で言ったわけではなかったようなんだが、僕にとってはけっこうショックだった。傷ついた、ということではなく(自分が気持ち悪いことは重々承知しているので)、僕はそんなに人によって言葉遣いを変えているものなのか、と気付かされたのだ。

と言ってもまるっきり無意識だったということもなく、やはり自分自身会話中に何度か違和感を覚えていた。その時は、その違和感をむしろ楽しんでいるところもあったが、特に二人に同時に話しかける時に、どういう話し方をしていいものか、どうにも迷う瞬間があった。

言語学では位相だとかレジスターなんて用語を使うらしいけど、言葉には年齢、性別、職業、場面、地域等々の相違から起こる変種というものがある。そして、この複数の言語変種のコードスイッチングを同じ場で何度も行うというのは、けっこう負担だ。というより、スイッチング自体は行えるが、それを人に見せると「照れる」。なんだか「恥ずかしい」。

さてそれで、今更な話だが日本語ってのは一人称を表す語が比較的多いとされている。そしてその一人称の語の使い分けが、かなり位相の使い分けと通じているところがある気がする。「僕」、「俺」、「私」、「自分」、まだまだたくさんある。女の子言葉では「わたし」と「あたし」でも随分違う機能を果たすそうだ。まあ、それが全てだってわけではないが、一人称はコードスイッチングを表現するための便利な語だとも言えるし、それを知るバロメータのようなものにもなりうるんじゃなかろうか。

僕にとって一番顕著な一人称の使い分けは、「僕」と「俺」だと思う。普段は「僕」の方が多くて、実際「俺」を使うことは少ない。でもどうやら、小・中学生の時には頻繁に使っていたみたいだ。地元に帰ってきて、その時の友達と話すとたまに「俺」が出る。家族と話していてもごくたまに出る。ただ、東京の知り合いにはほぼ確実に「僕」な気がする。

ところで、うちの父親は僕の前で自分のことを話す時、「父さんはな」と言う。また、彼は以前教師をしていたことがあるんだが、生徒と話している時は自分のことを「先生」と呼んでいた。どれほどキャラクターまで違っていたかは知らないが、職場と家庭とで一人称の語を使い分けていたということになる。でも、彼が幼い時には自分をそんなふうに呼ぶなんて思ってもいなかっただろう。そうすると、子供が出来た時、就職した時、等々、自分が新たなシチュエーションに身を置くことになったら、その分使う一人称の幅も増えるかもしれないということだ。(...僕にも姪っ子ができたら自分のことを話す時に「おじちゃんはね」なんて言ってしまうんだろうか。想像できないが。)

それから、日本語の一人称の話からは離れてしまうが、外国語で話すというのもある種の変種かもしれない。英語で話す時、フランス語で話す時にもある程度自分自身の使い分けがある。カナダにいた時は常に人によって英仏語のコードスイッチングをしていたが、両方を使って会話をしていた英仏バイリンガルの子に、「君って英語を話す時とフランス語を話す時で、けっこうキャラクターが違うね」と言われた。つまり僕は、"I"と"je"を使い分けていたのだ。まあ言ってみればその"I"と"je"の中にも細かく色々なキャラがあるはずなんだが。

後天的に覚えた外国語ってのは、それを習得した環境にかなり影響されているので、英語を話す時は、会話を通して僕が英語を学んだ人達(英系カナダ人やらカナダ移民の人達)に合わせたキャラになり、フランス語の時はフランス語を教えてくれた人達(主にフランス人)に合わせたキャラになる、というのも言えるかもしれない。まあとにかく、そうやってある種の異文化を持つ人達と交流し、言葉を新たに覚えることによって、今までなかったまた違う人称を設定できるような気がしないでもない。

さて、何を言いたいのか全然まとまらなくなってきてしまったが、ちょっと最近、無理矢理その一人称の使い分けのバラエティーを増やしていってみようかな、と思っている。僕はあまりキャラの使い分けが得意ではないので、統一するというよりむしろ色々なキャラを共存させてみる。まあ、先にも言ったようにたかが一人称によってそんなにキャラクターまで規定できるものじゃないかもしれないが、ひょっとしたら自分という人間の幅がちょっとだけ広がるかもしれない。今後新しく出会う人には、「わたし」だとか「わし」だとか「わい」だとか「自分」だとか「モワ」だとか、その他よくわかんないけど、今までやったことのない方法でアドレスしてみようかなと企てている。まあ、実際そんなこと気持ち悪くてできないだろうけど。差し当たって、今後しばらくこのブログでは「わたし」を使ってみるのでどうぞよろしく。

2008/02/14

ナルシシスティックな合わせ鏡の恐怖

髪を切った。もうかれこれ5年以上、床屋やら美容院やらには行かず、自分で散髪しているんだが、セルフカットの良いところはまず何よりお金がかからない。それに、こうこうこういう髪型にしてくれ、なんて人に説明する手間もかからないし、美容師と散髪中に交わす会話がいまいち噛み合わなくて自己嫌悪に陥るなんて心配もない。こんなこと言ったら美容師の友達に悪いが、僕はおしゃれでポップなビューティシャン達との会話があまり得意ではない。以前カルチョオタク仲間の一人が美容院で「ヨルゲンセンみたいな髪型にしてください」と言ったら「マルティンですか?それともマッズですか?」と聞かれたなんてネタで話していたが、本当にそんな素敵な美容師がいるとしたらぜひ会ってみたい。

さて、自分で髪を切る場合、コツとしては指で長さを測りながら切っていくんだが、やはり後ろは鏡を使わないと難しい。前と後ろとで合わせ鏡をして確認をしながら切る。そして実は、この合わせ鏡をする度に、僕はあることを思い出す。ブログ開設以来病気をネタにしてばかりで何なんだが、それは僕がまさに"鬱病ど真ん中"だった時に襲われた不思議な感覚。それまで経験したことのないようなある種恐ろしい感覚だった。

その恐ろしい体験について語る前に、まず僕のある性癖について触れたい。以前も人に話したことがあるが、僕には人生の大きな転機というものがある。(と、自分で思っている。) それは中学二年の時。 ふと、ある知人に勧められて、『日記』を書き始めた。 そして何気なく始めたこの『日記』が、 後の僕の人生に大きな変化をもたらすことになる。

最初の頃は本当に何てことのない内容の日記だった。 今朝、起きて何をした。学校で何があった。友達と何をした。 ただ単に日々の生活を綴っているような日記。 でも、そんな中身のない出来事を並べているだけでも、 毎日書いていると、それぞれの出来事が不思議と重要味を帯びてくる。 そして、それぞれの出来事に対して、自分がどう思ったのか、 それについて何を感じたのか、ということを書くようになってくる。

ただ、ここである問題が生じ始めた。 出来事に対する感情、意見をまとめようとしても、 なかなかうまく書けない時がある。 筆が進まない、というよりは、筆は進んでいるんだが、何かしっくりこない。 それまで、こうやって書けばうまい文だ、と教えられてきた 読書感想文のような文章を書いても、 それがまるっきり嘘っぱちのように思えてくる。 決して自分の本当の思いを表していないような気がする。

じゃあ、僕の気持ちって何だろう。 僕はこれを見て、あれを聞いて、これをして、あれをされて、 いったい何を思ってるんだろう。 本当の僕は何を言いたいんだろう。 そうやって考えれば考えるほど、自分の感情がわからない。 自分には全く感受性が欠落しているようにも思えてくる。

これが、日記による自己の発見、もしくは喪失の始まりだ。 別に当時こんなこと考えてもいなかったが、 自分を見つめて苦しみ始めたのはこの時期からだった。 そして、自分のどんな行動をも分析しようとしてみる。 自ら本当の自分だと言えるような行動を探ってみる。 ハイテンションになって楽しもうとしてみたり、 やけにローテンションをきどってみたり。 でも、何をしていても自分の本当の行動ではない気がする。 後で日記を書く自分との乖離がある。 だから、何をしていても自分の行動に自信がない。 その行動が自分の本当の行動であると信じられない。 たまに思い切ってある行動をとってみたとしても、 後でまた自己嫌悪に陥ることがある。 何であんな行動をしたのか、自分でも理解できない、と思う。

そして僕は、何をしていても自信がない、信念がない、確信が持てない、 はっきりとしない自分がだんだんと嫌いになってくる。 行動を取るのにも迷う。行動をとったら後悔する。 何をしていてもそれは僕の納得のいく答えではない気がしてしまう。いつからかそんなふうに感じるようになってしまった。

さて話は戻って、僕が鬱病だった時、この僕の性癖のようなものがさらにひどくなった。かつてない程のアイデンティティ・クライシスに陥り、はっきりしない自分を責めてしまったというのは「自分を好きになるってこと」の中で述べたが、それと同時に、自らの信念を持つために、自分とは何者なのか?今何をすべきで、何をしたいのか?ということをひたすら自問した。確固たる自分を捜そうと努めた。

するとある時突然、「バシィィッッ」といくつにも重なった自分が見えたような気がした。なんだかマリファナ吸ってるやつのセリフみたいだが、本当に合わせ鏡をしたかのような、そんな幻想を見た。それは、いくつも存在している新たな自分自身を次々に発見したが、実はその全てが虚像であり、どこまでもどこまでも奥に進んで行ったとしても本当の自分なんてものは永久に発見できない、というある種の悟りのような絶望のような、そんなおかしな感覚だった。そしてその後の僕はもっともっと壊れていった。

実は合わせ鏡というのは昔から縁起が悪いと言われていて、怪談の題材にもよくなっている。鏡の中の世界は別世界だとか、霊道ができると信じられているだとか。江戸川乱歩にも、『鏡地獄』という鏡の球体の中に閉じこもって発狂した人を描いた小説がある。ちなみにネットで少し調べるだけでも、合わせ鏡を題材にした怖い話がかなりある。まあ、今合わせ鏡をして、僕のその時の恐怖が蘇るってことはないんだが、あの感覚は今でも忘れられない。ひょっとして僕もあとちょっとでまるっきり別世界の帰って来れないようなところにまで行っていたんだろうか。そう思うと正直、怖い。こわやこわや。いや、本気で恐怖を感じる。

ただ、この体験でもう一つ感じたことは、僕はずっと信念がなくてへろへろな自分が大嫌いだとかそんなことを言い続けてきたわけだけど、自分に関心があるという意味では、相当自分のことが大好きなんだなあ、ということ。思うに、僕にとって常に一番の関心事は自分である。何か出来事に対して反応する自分を見るのが好きなのである。多世界との交流をした自分を見るのが好きなのである。例えば恋をした時なんかも、あんなに恋しないなんて思ってた自分が人を好きになるなんて、と新たな自分を知って感動するのである。まあ、自己分析すればするほどわからなくなって、またその自分が嫌いになるんだが、それでもやっぱり、自分をずっと観察していても全く飽きないぐらい、いつまでも自分自身に興味津々なのだ。

とにかく、こうやって合わせ鏡のように自分を見つめ過ぎる行為は危険だ。しかし、ああ、僕はなんて青臭くて恥ずかしいナルシシストなんだ!というのが今日の戯言の結論。

2008/02/11

ブログ開設

今日から本格的にブログを更新していこうと思う。(と言ってもかなり不定期になりそうだが。)

以前からずっと自分のブログをつくることには興味があったのだが、なかなか踏ん切りがつかないままだった。突然何かを書きたいという欲求に駆られることがあり、さらに書くだけではなく、それが誰かに読んでもらえれば嬉しいという気持ちが自分にあるということはよく知っていた。ただ、なかなかそれを満たす場所がどこかわからないでいた。時々つける個人の日記では、結局自分自身と向かい合うだけで、何も返ってこないような気分になることがある。また、ネット上のある別の場所で何かを書くことで少し自分を満足させていたこともあったが、それは主に特定の人々(自分の友人、知人達)にむけてのものであり、なかなかその場で自分の思うことを綴るのが困難になってきた。
その理由としては、まず読み手を強く意識しすぎてしまうことが挙げられる。誰が読むかということを知っていて、さらにきっと読まれるだろうと思うと、どうしてもその人達に読んでもらうために書いてしまう。「書く」ということよりも「読まれる」ことにプライオリティーを置くようになってしまうのだ。そしてそこからつい色気が出てしまうこともある。読まれるためにはどのように書けば良いのかということを考えるようになってしまう。当然、人に読んでもらえるようなわかりやすい文章を書く、というのは大切なことではあるが、それによって時に自分自身を伝えきれなくなってしまうことがあるような気がするのだ。これでは、自分の書く行為の目的が変わってしまう。
それから、何人かの読み手がいる中で一つのスタンスを保つのが難しくなったということもある。誰しもがコミュニケーションを取る相手によって多かれ少なかれ自分のキャラクターを変えているんじゃないかと思う。別にそれが悪いことだと言いたい訳ではなく、ほとんどの人は自分が対面する人によって、ある程度うまく自分自身を使い分けているのだ。しかしそんな中、本来その「使い分け」をしていた色々な人達にむけて、一度に何かを書こうと思うと、どうしても自分の中にブレが生じてしまう。いったいどの自分を出してよいのか、わからなくなるのだ。これでまた、自分自身をうまく表現できないことになってしまう。
さてそこで、今後はもっと不特定の人々(不特定多数ではなく、少数で構わない)に読まれるかもしれないという場で、自分の思うことを書いていこうと思っている。実はこの「読まれるかもしれない」というのが重要であって、決して「読まれるだろう」ではないのだ。結局僕にとってこの誰かに向けて書くという行為は、誰かしらに読まれるかもしれないということを前提にして書くことによって、自分自身の考えを知り、それをまとめるのを目的としているような気がする。個人の日記と違いほんのわずか読まれる可能性があればよく、また自分の書いた物を読もうと思っている人だけが読めばよい。そんな場で、ほとんど読まれることを意識せず好き勝手に書いてみたいのである。したがって、これからはこのほとんど売れなくて廃刊寸前の雑誌に投稿するような環境で、気持ち悪くてくだらないことをつらつらと、だらだらと、思う存分書いていこうと思う。つまりこれが、本ブログ開設の趣旨である。
ちなみに、このブログのタイトルの「虚無の境地」というのは、特に意味はない。最近ある知り合いとの会話の中でふとその言葉を聞き、妙に耳に残ったので使ってみた。なんだか仏教用語か何かみたいだが、その意味はよくわからない。老子によれば虚無とは有無相対を超越した境地だそうだし、虚無主義と言えばニヒリズムのことだそうだが、別にそこまでのことを狙って使ったわけではない。
ただ、この「虚無」というテーマが、自分の書くもの、もしくは書くという行為そのものに通ずる気が少しだけしている。僕が書くものというのは、空虚で内容もなくむなしいものである。ほとんど誰にも読まれないような、いわゆる戯言(たわごと)なのである。ただしかし、僕はそれでも書きたいと思う。突然書かずにはいられなくなる。そこがまたむなしくもあるのだが、それでも僕はこの虚無感が好きなのだ。この無駄な行為をすることに、非常に(自己)満足がいくのである。
そして、なぜか英語でつけたサブタイトルの"Lovely Twaddles and Nothingness"にも、同じような意味を込めたつもりだ。"twaddle"とは「戯言」や「無駄口」の意味である。また、"Nothingness"も、いわゆる「無」というだけではなく、「無価値なもの」、「無意味なもの」としての意味を持たせてある。つまり、自分自身の書くことすべてが戯言であり無意味なものであるということを言いたいのである。(まあ、英語の"twaddle"は本来他人の言ったことや書いたことについて言うものであり、日本語の駄文のように自分自身の文章については言わないようだが。)そして、その上で、自分自身この虚言や無意味さが"lovely"だと感じてもいる。つまり、「自分のかわいい虚言達、そして愛らしい無意味さ」というのが本ブログの副題だ。
タイトルだけ見るとやけに仰々しくて格好つけてる感じがするし、それをこんなに一生懸命説明する時点で相当ダサいが、そんなことはもうどうだっていい。これも無駄口のうちである。全て戯れ言なのである。とにかく、今後もひたすら戯言を言い続けて行こうと思う。そして今日はその記念すべき第一歩なのだ。
これからもどうぞよろしく。

ちなみに、トップの富士山を含む山々の写真はうちの親父が実際に撮った写真を無断掲載したもの。

2008/02/10

自分を好きになるってこと

さて、今回ブログを開設したわけだが、いざ何か書こうと思っても特に何も思いつかない。そこで、少し前に書いて別の場所で公開したものをもう一度アップして、このブログの第一回目の投稿とする。本文中でも何度も言うように、やはりこれが、今の自分が出せる精一杯のメッセージだと思うから。本来続きだったものの一部分のみを載せるので、初めて読む人にはわかりづらいところがあるかもしれないが、あえて修正せずそのままにして投稿する。...いや、こんな断りを入れつつ、ここで新たな読者を獲得するだろうとは正直思ってはいない。しかしこうして"誰か"に対して発信をしたという事実こそが大切なのだ。これが誰かの心にひっかかればと願いつつ、いつまでもこのメッセージを自分自身の心に留めておくためにここに載せる。気が向いた人がいれば、ぜひ読んでもらいたい。


「自分を好きになるってこと・完結編」


前回の日記は、つい悪い癖が出て脱線してしまった。今回はその本題。そして、できれば読んでもらいたい。普段は僕の書くものを読むなんて苦痛だろうと思ってこんなこと言わないけど、今日だけは読んでほしい。面倒だったら最後の数行だけでいいから読んでほしい。うまく伝えられるかどうかわからないし、お前こんなことブログに書くなよ、というぐらい重い内容になるかもしれない。でも、大まじめに、これを僕からの精一杯のメッセージにするつもりでいる。

前回書いたように、僕は自分に自信がない。信念がないへろへろの人間で、そんな自分が大嫌いだ。ひょっとしたら自分に何か高い理想を求めてるからそんなふうに思うのかもしれないが、自分という人間に納得がいかない。そうやって今まで生きてきた。

これも既に述べたが、考え方によってはそういう生き方をしているというのも信念の一つだと言えるかもしれない。現に、自分に自信を持ちたくないと思うことがよくある。自分の考え、生き方に自信を持ってしまった時点で、僕という人間が確立されてしまって、それで終わってしまう気がする。ずっと謙虚でいたい、というのとは少し違うかもしれないが、常に自分に対して成長、変化の幅を残しておいてやりたいような気がする。

ただ、こうして自分自身を嫌うっていうのは、時にとても危険なことがある。と言うのも、自分自身を責めすぎるあまり、そこから立ち直れないぐらいにまで落ち込んでしまう時があるからだ。事実、僕が深刻な鬱病だった時期には毎日自分を責めていた。鏡で自分の顔を見る度に「こんなクズ、早く死んじゃえばいいのに」と本気で思っていた。他人に対して「死んじゃえばいいのに」なんて思うことはないし、思いたくないけど、自分に対してはそう思える。自分が駄目な人間だということをよく知っているから。こんなクズが生まれてきた意味なんてないし、今後生きていく価値なんてない、と思うから。

今思い出すと、あの頃は自分が生きるということに対して大きな罪悪感を持っていた気がする。自責の念に駆られるというのは鬱病患者の代表的な症状だとされている。当時僕の精神が異常だったということは間違いないので、それも鬱病の症状の一つだったと言えると思う。ただ、ひょっとすると僕自身がもともと自分を責める気持ちが強い人間だから鬱病になったのかもしれない。自責という行為が鬱病発症の原因になったのかもしれない。まあ、その真相はわからないけれど、それによって余計に病を悪化させたことは事実だと思う。

さて、半年間ぐらいそんな気持ちで苦しんだわけだけど、最近はやっと心身の調子が良くなって、毎日を元気に過ごしている。以前に比べて生活が安定していると思う。鬱病の症状も全く出なくなった。

そしてそんな中、つい二日前の出来事なんだけど、バイトから家への帰り道、「今日も平和に一日が終わりそうだな」と思った瞬間、とても不思議な感覚におそわれた。言うのが少し恥ずかしいんだけど、突然涙が出てきた。一瞬、「やばい、また鬱病の症状か」と思ったけど、でもそれは、決して以前のように自分が嫌になって、自分を責めて流す涙ではなくて、むしろこう、自分を少しだけ好きになった感動のようなものだった。うまく言えないけど、今まで大嫌いでいじめ続けてきた自分を、その日はほんの少しだけ許してあげられたような気がした。

その時ふと、以前の日記にも書いた「けるくしょーずあこて」(余暇にやることを持つということ)の話だとか、「人に対して怒らないようにしよう」なんていう話だとかも、僕は全て自分を好きになるための作業をしていたんだなあ、と思った。

人間って(僕は特にそうなのかもしれないけど)、やっぱり自分の本業とされていることで納得をしていたいんじゃないだろうか。例えば仕事で充実していたいと思う人は多いと思う。ただその仕事が大好きじゃなくて夢中になれないこともよくある。そんな場合は、給料がいいとか、休み時間があるとか、人間関係がいいとか、そういうことで何かしら納得している(させている)はず。本業での自分に納得しているということは、それをやっている自分が好きなんだと思う。大好きとまではいかなくても、嫌いじゃないだろうし、許しているんだと思う。こんなふうに、誰だって自分の毎日やっていることに納得していたい。

ただ、僕はそれができなかったし、今の僕の状況では本業で納得というのはできないから(それがどういう形なのか見つけられないから)、せめて他のことをやって、それをやっている自分を好きになろうと思っているんじゃないだろうか。本当にささいなこと、趣味でも何でもいいけど、それをやっている時の自分を好きでいたい。例えば、毎日のジョギングの話だけど、それを欠かさずにやっている、というだけでやっぱり多少の自信になる。自分がほんの少しでも頑張っているという気になる。そしてこういう小さなことを積み重ねていった時、クズであったはずの自分をちょっとだけ好きになれる気がする。特にひどい状態だった時の自分を知っているから、あそこから抜け出すために、少しずつ、一歩一歩進んできたんだと感じる。そして半年間その作業を続けてきた自分に、素直に「お疲れさん」と言ってあげたい。あの涙は、そんな思いから来た涙だったんじゃないか。

また話がずれてきてしまった。

僕が言いたいのは、この経験を通して、自分を好きになるってことがものすごく重要なんじゃないかと思ったということ。自分自身に、そして自分のやっていることにある程度の納得をすること。クズのような自分だって、何かやることはあるんだと知ること。別に誇りにできるようなことじゃなくたって、それをやっている自分が好きだな、って感じること。そうやって思えることが、本当に大切なんだと思う。

鬱病で苦しんでいる人達の中には、きっと今も自分を責めて責めて、もう耐えられなくなって自殺しようとしている人がたくさんいると思う。そんな死ぬ程つらい思いをしている人に、「頑張って。死んじゃ駄目だよ」なんていう権利が僕にあるのかどうか正直わからない。いや、死んでほしくはないけど、僕にはそうやって声をかけられないような気がする。僕なんて軽い症状だったのかもしれないけど、それでも鬱病の状態が本当につらいのを知っているから。あれ程苦しい状態からどうにかして解放されたいと思うのは当然だと思う。病気が治るのが一番なのかもしれないけど、それまでにどれだけ時間がかかるのかわからないし、本当に治るのかもわからない。そこで思いつく自殺という選択肢は、果たして間違っていると言えるのだろうか。僕にはなかなか判断し難い。

ただ、その苦しい状態から抜け出す自殺以外の方法の一つとして、「自分を好きになる」ということを伝えたい。こんな話があるけどどうかな、という程度にそっと教えてあげたい。鬱病の人に「要は気の持ち方だよ。自分を好きになってみなよ。」なんてことは絶対に言えない。そういうふうに思えなくて苦しんでいるんだから。それをできない自分をまた責めてしまうかもしれないから。鬱病の時は、やっぱり自分自身に何かしら許せない部分があって、それはすぐには消せないと思う。そんな時に、簡単に自分を許して、さらに好きになるなんてこと、正直できないと思う。

でも、許せない自分の存在は消せなくても、他のところで好きになれる自分は存在していると思う。「簡単に」自分を好きになれるとは言わないけど、「小さなことで」自分を好きになれるかもしれないということだけを知っておいてほしい。例えば、本当に何もできないような状態になって、布団から全く起き上がれないような時、歌を歌ってみる。そんな状況で歌を歌う自分がなんだか不思議に思えて、ちょっと愛らしく感じられるかもしれない。

いや、この例は現実的ではないかもしれないけど、ほんのささいなことでも、自分を好きになるきっかけを持つ可能性はあるはず。毎日花に水をやる自分を好きになる、散歩に出ていろいろ観察する自分を好きになる、筋トレする自分(自分の体)を好きになる、小説を書く自分を好きになる、楽器を弾く自分を好きになる、美容院に行っておしゃれした自分を好きになる、おいしいものを食べる自分を好きになる、妄想をしてその中の自分を好きになる、誰かを好きな自分を好きになる(鬱の時はなかなか恋をするのは難しいだろうけど、別に恋じゃなくたって、どんな種類の好きという気持ちでもいいと思う)。もしくは状況によったら、社会不適合者の自分を好きになるってのもできるかもしれない。前回書いたみたいに、職場で冷遇されていたり、仕事を辞めてしまったというような時でも、今のこの状況は一見つらいけど、それは自分の信念がもたらした結果である、なんて思えば、そんなに自分を責める気持ちにはならないかもしれない。

それよりもっともっと小さなことだっていい。昨日できなかったことが今日できたら、素晴らしいことだと思う。布団から出られたら、外に一歩出られたら、買い物に行けたら、電車に乗れたら、人と会話ができたら。そんなちょっとずつの前進も、充分自分を好きになれる要素だと思う。難しいのはよくわかってる。実行するのはそんなに簡単なことじゃない。でも、その可能性はあると思うし、場合によっては症状を軽減させる効果があるんじゃないだろうか。

本当に、どんな人も多少は自分を好きじゃないと生きていけないと思う。最近よく聴いてるピチカート・ファイヴの『ヒッピー・デイ』の歌詞からパクるけど、「花に水をあげるように あなたにもわたしにも スプーンひとさじくらいの愛がなけりゃね」ということ。つらい時には、スプーンひとさじくらいでいいから、自分自身に愛をあげてみるのはどうだろうか。決して無理をする必要はないから、花に水をあげる気持ちで、自分を好きになってみてくれないだろうか。こんなクズみたいな花枯れちゃえ、と思ったら本当に死んでしまうから。空から雨が降るみたいに、他の人からたくさんの愛をもらえることがあればとてもいい。(事実、僕はもらった。)でも、実は自分自身でも少しずつ愛をあげられるんだってことを、もしよければ覚えておいてほしい。

気持ち悪いことばかり言いやがって、と思われるかもしれないけど(実際以前の僕ならそう思ってたかもしれない)、けっこうまじめに書いたつもり。これをここまで読んでくれた人達が今後、どれぐらい鬱病に接する機会があるかわからない。なるべくそうならない方がいいと思うけど、この先何が起こるかわからない。僕だっていつか鬱が再発して、自殺しようと思うことがあるかもしれない。もしくは自分自身が鬱病にならなくても、周りの人がそれに近い状態になることがあるかもしれない。そうなった時に、僕はこの「自分を好きになるってこと」を実践したいし、人に伝えたい。自分の言葉が救いになってほしいとか、皆の心に届けとか、そんなことは思わないけど、誰かの心にひっかかってくれればいいと思う。こうしたらいい、なんて勧められる万能薬では決してないけど、もし気が向いたらやってみて、とだけ声をかけてあげたい。

皆も、もしも何かのきっかけで自分がそんな状態になってしまったら、ほんの少しだけ「自分を好きになるってこと」を思い出して、それを試してみてくれないだろうか。もしも自分の大切な人が苦しんでいる時があったら、これをほんの少しだけ思い出して、そっと伝えてあげてみてくれないだろうか。こうして「自分を好きになるってこと」が大切なんだっていうことを意識してみてくれないだろうか。

我ながらびっくりするぐらい長くなったけど、これが僕からのメッセージ。
本当に最後まで読んでくれた人、どうもありがとう。